2代で築いた流派の基礎
上地完文がこの世を去ったのは1948年。栄養失調のため、享年71だった。このとき最期の地・伊江島から名護市の実家まで亡骸を小舟に乗せて運んだ一人が、新城清秀(しんじょう・きよひで 1951-)の祖父・新城清良(しんじょう・せいりょう 1908-1976)である。
清良は和歌山の紡績工場時代に完文に師事し、またその子・清優 (しんゆう 清秀の父 1929-)も、10歳で上地流空手に入門。戦後完文が帰郷するのに同行した。清秀自身も10歳で空手を始めた、いわば3代つづく空手一家だ。
話は戻るが、上地流空手を開いた完文の死後、後継者となったのは、若くして免許皆伝を許されていた完英だった。完英はじきに「不惑」に届こうとしていた。
戦後まもないころ、完英は弟子らの勧めで、道場を名護市から宜野湾市野嵩(のだけ)に移す。米軍施設の普天間飛行場に近い場所で、友寄の証言によると、当初、完英は名護から毎日自転車に乗って指導に通っていたが、見かねた弟子たちが米軍の工事現場などから材料を調達するなどして、戦後の資材窮乏の中、急場でかやぶき屋根の小さな家(自宅兼道場)を造り、家族全員で引っ越してもらったという。これが上地流の普天間道場の始まりとされる。
1950年にこの道場に入門した高良信徳(たから・しんとく 1930-)は、当時、上地流は、普天間、那覇、小禄の3つの道場の時代だったと振り返る。
それぞれ完文の3高弟といわれた上地完英、糸数盛喜(いとかず・せいき 1915-2006)、上原三郎(うえはら・さぶろう 1900-1965)が指導しており、高良は完英の指導する普天間道場で稽古に励んだ。
まだ空手着などない時代で、パンツ1枚で、夜7時から2時間程度、週7日(毎日)稽古したという。稽古は昼すぎから始まる午後の部と、夜の部とがあった。
僕らの時分は草創期で門弟も少ないですから、夜の部に来るのは4、5人もいませんでした。
当時の稽古体系は、サンチンを3年くらいかけて行うと同時に、小手鍛えや巻き藁突きなどを繰り返したという。
昔は朝から晩まで巻き藁をついていました。今はスポーツ空手になって、スピードが重視されますが、もともとの上地流の特徴は、体を硬くして、スピードをつける。相手が突いてきたら、一発で相手を倒すとの考えで練習していました。そのへんの感覚は今とはかなり違うかもしれません。
サンチンが終わると、次の型であるセーサン(十三)に移る。そこで初めて黒帯として認められた。といっても、段位制度がない時代で、初段や二段といった区別はなかった。
型は、完文が中国から持ち帰ったサンチン、セーサン、サンセーリューの3種類のみ。通常はサンチンからサンセーリューまでを10年くらいかけて行ったという。
その後、演武会を催してもすぐに終了してしまうなどの理由から、2代目の完英の時代に5つの型が創作され、現在、上地流では8つの型を使用している。
上地流は、初代が中国で身につけた拳法を日本に伝え、2代目の時代になり、流派としての土台が形成されたといえる。
上地流空手の特質
いざというときにこの手足が使えるのか、殺傷力を日々鍛錬してきました。(沖縄空手は)型さえできればいいというものではありません。いざというときに型の中身を使える空手でなければ、所詮は絵に描いたモチにすぎなくなります。
そう語るのは、上地流空手道拳優会を率いる新城清秀(前出)だ。祖父が伊江島出身で、3代にわたり上地流空手を修行してきた。新城自身、さまざまな試合(組手・型)で多くの実績を残してきた実力者。現在の上地流の「顔」ともいえる一人だ。
1951年生まれの新城が空手を始めた1960年代は、そのままベトナム戦争の最盛期に重なる。当時の上地流は「実践空手」を標榜し、激しい自由組手の稽古で知られるようになっていた。
新城の回想によると、当時は外国人を取らない道場も多かった中、沖縄の人が月謝3ドルのところ、外国人は10ドル払っても平気だったため、経済的理由もあってどんどん入れた。上地流にはそうしたハングリーさがあったという。
だが、稽古のたびに激しい組手で前歯や肋骨を折ったり、鼻血が出るのは日常茶飯事。道場の外にはいつも米軍病院の救急車が待機している状態だったという。
さらに稽古は「道場内」ばかりとも限らなかった。外国人が威張って歩く時代ですからね。(沖縄は)いわば植民地ですから。外国人が来ると道場は喧嘩同様の修羅場になりました。上地流にはそうした歴史があるのです。
昔の「かけ試し」さながら、米兵のたむろするバーなどに繰り出しては、道場の先輩の指令で、ストリート・ファイトを繰り返した時期もあったという。だがそんな行動が長続きするわけはなく、上地流として組手試合のルールがつくられ、若者らのエネルギーは健全な方向に発揮されるようになった。
新城は、上地流が広まった理由を、この時代の「実践空手」にあったと見ている。自分たちよりはるかに大きな駐留米兵の門下らを日常的に相手にしながら、必殺技の研究に余念がなかった。組手を避ける流派とは異なり、上地流では実戦に使えない空手は無意味と考える風潮が強かった。
日本本土では同じころ、極真空手のブームが起きつつあった。「実戦空手」という意味では、上地流はけっして引けを取るものではない。
ちなみに極真が組手試合で採用しているフルコンタクト・ルールでは、拳による顔面攻撃は禁止されているのに対し、上地流では寸止めで顔面に当てないものの、顔面攻撃そのものはポイントの対象となるという。そのため同流派の試合は、より実践に即した評価を含むルールになっているといえよう。
極真の試合を見た上地流関係者が、「顔面のガードがおろそかになっている。あれでは実戦では通用しない。甘すぎる」と酷評するのは、フルコン・ルールがもたらす弊害を指してのことだろう。(文中敬称略)
【連載】沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流:
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