沖縄伝統空手のいま~世界に飛翔したカラテの源流
第11回 沖縄独自の流派・上地流(上)

ジャーナリスト
柳原滋雄

 上地流は、沖縄3大流派(しょうりん流・剛柔流・上地流)の一角を占め、独特の存在感を持つ。3流派の中では比較的歴史が新しいが、戦後は米国を起点に世界へと広がった。
 歴史的にみても、小林流や剛柔流が日本本土に伝播し、現在の4大流派(松濤館・剛柔流・糸東流・和道流)の基礎を構成したのと比べると対照的な立ち位置だ。一例として、本土空手の主力組織といえる全日本空手道連盟において、上地流の型は指定型(空手の型試合で演武するときの対象型)に一切含まれていない。
 その意味でも、上地流は沖縄独自の流派といえる。歴史が浅いというハンディキャップにもかかわらず、なぜ上地流は戦後急速に伸びたのか。なぜ沖縄空手の一角を占めるに至ったのか。その魅力と歴史をたどる。

流祖・上地完文の半生

上地完文翁・銅像建立除幕式でテープカットする関係者(2018年4月)

上地完文翁・銅像建立除幕式でテープカットする関係者(2018年4月)

 2018年4月、沖縄本島中部の桜の名所として知られる「桜の森公園」(本部町)内で、上地流空手の開祖・上地完文(うえち・かんぶん 1877-1948)の銅像建立除幕式が行われた。
 台座と銅像を合わせて800万円以上の建設費は、多くの門弟や支援者らの寄付によって賄われたものだ。約3メートルの銅像は、完文が晩年をすごした伊江島を背に、生誕の地・本部町伊豆味(いずみ)の方角に向かって建っている。
 式典には上地流関係者をはじめ、流派を超えた空手関係者など数百人がかけつけた。
 主催者あいさつに立った4代目宗家の上地完尚(うえち・さだなお)は、冒頭、天気が晴れたことに安堵の思いを口にした。完尚は上地完文のひ孫で、40代の人物だ。
 上地完文は、1877(明治10)年に本部町で出生し、20歳のとき空手修行をめざして福建省福州市にわたった。徴兵忌避のためとの説も残されているが、強くなりたいとの一心で海を渡ったことは事実と思われる。
 中国では南派少林拳の達人・周子和(しゅう・しわ 1874-1926)に師事し、27歳で免許皆伝となり、その後南靖という町で自らの道場を運営した。
 帰国したのは1910年。都合13年間の外国生活で達人レベルの技法を身につけながらも、帰国後、故郷の沖縄で空手を教えることはなかった。
 理由として、中国で指導した弟子のひとりが、あるとき揉めごとに巻き込まれ、誤って人を殺めてしまったことへの自責の念が強かったからといわれている。
 沖縄に戻った完文は結婚後、農作業で生計をたてながら、2男2女の子ども4人を含む家族を養った。転機となったのは大正末期、和歌山の紡績工場に転職し、単身出稼ぎに出たことだった。

パイガヰヌーン拳法を創設

 故郷に戻りながら空手を教えることなく17年の沈黙を守った完文が、空手指導を始めるきっかけとなったのは、同じ沖縄出身の同僚らによる度重なる懇請だった。
 1977年に発刊された大部の『精説沖縄空手道』によると、和歌山の紡績工場の社宅を使って空手指導が始まったのは、1926(大正15)年4月とされている。社宅といっても、8畳ほどの狭い一室を使ってのことだった。
 このとき完文は49歳。孔子の教えに従えば、50にして天命を知る直前に自身の天命を悟ったということになろうか。

二代目宗家・上地完英(41歳)の虎の構え

二代目宗家・上地完英(41歳)の虎の構え

 その後、中学を卒業したばかりの長男・完英(かんえい 1911-1991)を和歌山に呼び寄せ、父子一体の精進も重ねられた。
 1932(昭和7)年には名称を「パイガヰヌーン拳法」と命名。パイガヰヌーンは半分硬く、半分柔らかいという意味の福建語というが、1940(昭和15)年に「上地流」と改名し、現在の流派名に至っている。
 完文が長男の完英に免許皆伝を許したのは、自身と同じ20代の半ばすぎ。戦争激化が見込まれた1942(昭和17)年には、完英を先に沖縄に帰してもいる。
 完英は沖縄の名護市で道場を開いたが、これが空手発祥の地・沖縄で上地流が始まった記念の年(1947年)となった。
 上地流は、沖縄出身者によって開かれた流派ながら、沖縄ではない遠い日本本土で産声をあげ、その後沖縄に戻るというイレギュラーな経過をたどった。
 20年余りの和歌山生活を終え、完文が沖縄に帰ったのは終戦後の1946年。故郷の本部町に近い伊江島に居を落ち着け、少数の弟子たちに空手を指導する日々をすごした。
 この時期、完文から1年ほど指導を受けた者に、沖縄県指定無形文化財保持者(空手・古武術)の友寄隆宏(ともよせ・りゅうこう 1928-)がいる。伊江島出身の友寄は語る。

 県立一中(現、首里高校)時代、徳田安文先生から小林流を、宮城長順先生から剛柔流を教わりました。伊江島に帰ってから、上地完文先生に(上地流の最も基本となる)サンチンの型を教わりました。サンチンだけを1年かけて行いました。先生は私に忍耐力があるかどうか、どういう心持ちで空手をしているのか試していたのだと思います。その後、私は再び伊江島を出て、(沖縄本島で)米軍の憲兵隊の通訳として働くようになりました。

「空手のお陰でいまも車を運転できるほど元気です」と語る90歳の友寄隆宏さん

「空手のお陰でいまも車を運転できるほど元気です」と語る90歳の友寄隆宏さん

 ちなみに、和歌山の紡績会社に勤務していた時代の完文に、熱心に空手指導を懇請し、口説き落としたのは、隆宏の実父で、完文と同じ紡績工場で働いていた友寄隆優(ともよせ・りゅうゆう 1897-1971)だった。
 隆宏はその後、ふた回り近く年長の2代目宗家・上地完英から、直接指導を受けることになる。
 友寄隆宏が完英に初めて出会ったのは、かつての師匠である宮城長順(剛柔流開祖)に誘われ、戦後まもないころの演武会に参加したのがきっかけだった。
 そこで完英は、古武道の演武で使用された樫の木製の六尺棒を借り、「この棒で私を叩いてもらいたい」と会場に呼びかけると、力自慢の外国人が一斉に手を挙げたが、サンチンで鍛え上げた完英の肉体が逆に堅固な棒を折ってしまった。この光景を目にして、友寄は父親と同じ上地流に打ち込むことを決意したという。(文中敬称略)

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。