「神々の繊維」
2000年代に入って注目されるようになった「ソーシャル・デザイン」。不公正や不条理、社会問題をクリエイティヴな発想によって解決していこうという取り組みは、今や世界的な潮流になりつつある。
それは、ソーシャル・ネットワークの普及によって、これまでにない形で人々がフラットにつながり、多様な情報が共有される時代がはじまったことと軌を一にしている。
井上聡・清史の兄弟がアートスタジオ「ザ・イノウエ・ブラザーズ」を設立したのは2004年。07年から、南米アンデスの先住民と協働してアルパカの毛を使ったニット製品を作りはじめた。
とくに野生種であるピキューナの毛繊維は世界に存在する毛繊維のなかでもっとも細く、極上の絹のような美しさと風合いで、最高級カシミアの10倍の値がつく。
だが兄弟が最初に訪れたボリビアでも先住民たちは劣悪な環境に追いやられ、粗雑なニット製品を安価で買い上げられ、1日1ドルほどの貧困な生活を強いられてきた。
試行錯誤と失敗の連続にもくじけず、井上兄弟は現地の人々と地道に交流し、信頼を深め、〝世界一のアルパカ〟ニットを作ることに挑戦し続ける。
ついに2011年には、最新科学によってアルパカの繊維品質向上に尽力してきたペルーのパコマルカ研究所とパートナーシップを結ぶことになる。
こうした執念が実を結び、2015年11月18日、東京・新宿の伊勢丹メンズ館でおこなわれた発表会では、極希少種である黒毛のアルパカ毛を使った、まさに〝世界一のアルパカ〟のコレクションが並べられた。(「メンズファッショントレンド」【伊勢丹】ザ・イノウエ・ブラザーズ)
異邦人としての苦悩
井上聡と清史は1978年と80年、いずれもデンマークの首都コペンハーゲンで生まれている。
母・さつきはデンマークに語学留学した後、そのままコペンハーゲンの日本航空に就職し、父・睦夫はドイツ留学を経てデンマーク王室御用達のガラス工房で専属デザイナーをしていた。
今でこそ多様性と寛容という言葉で語られるデンマークだが、兄弟が幼かったころはアジア人の存在すら珍しく、聡も清史もマイノリティーゆえに理不尽なイジメや抑圧を経験する。
しかも、まだ15歳と12歳という思春期のさなかに、父・睦夫が44歳の若さで急逝した。そのため新しい服を買うどころか修学旅行の費用さえ工面できないほど、一家の家計は苦しくなった。
だが、この疎外感と苦境が兄弟の資質を開花させる。不条理や不公正への怒り。デンマークへの反発心と、この国から学んだ社会貢献への視線。なによりも、父が教え遺してくれていた〝失敗を恐れない勇気ある生き方〟。
兄の聡はデザイン会社を設立し、25歳のときにはコペンハーゲンで最も注目されるグラフィック・デザイナーの1人として成功を収める。クライアントには同国の名だたる企業が連なっていた。
弟の清史もロンドンに渡り、美容業界の最高権威ヴィダルサスーンで史上最年少のアート・ディレクターになった。
こうして若くしてピークに立ちながら、しかし、2人はそれぞれに疲弊していた。
僕たちふたりは、欲とエゴで生きていた。だから、とても苦しかったんだと思う。弟は当時、スコットランドのグラスゴーにある支店で働いていた。僕は清史に電話をかけ「お互いにいまの会社を辞めて、俺たちのアートスタジオをつくらないか。父ちゃんに誇れる仕事をしよう」と伝え、彼女のウラ(現在の妻)を伴って赴任先に会いに行った。(井上聡による「まえがき」)
学んでいるのは自分たち
NGOで活動していた友人の勧めで、兄弟は前述したボリビア先住民たちの文化と出会う。そして2人が衝撃を受けたのは、先住民の人々が過酷な暮らしを強いられていることと同時に、そのなかで気高さと喜びをもって生きている姿だった。(動画サイト「vimeo」)
The Inoue Brothers – In The Land of The Alpaca from Present Plus on Vimeo.
この人々が大切に守ってきた文化の上質さを世界に伝え、その利益が公正に還元される仕組みをつくるにはどうすればいいのか。
アンデス地方に同行した取材中、ふたりは移動する車中で、「善い行いをしているつもりはまったくないんだ」と語った。そして、「むしろ、自分たちのほうが彼らから人間らしさを学んでいる」とも言った。(本書を編集した石井俊昭による「あとがき」)
本格的にファッションの仕事をしたことのない2人が〝世界一のアルパカ〟の商品を作ると宣言しても、それは雲をつかむような話だった。
本書には、その悪戦苦闘の日々が綴られている。動き出したからには事業を頓挫させてしまうと先住民の人々を裏切ることになる。とはいえ、自分たちの資金と時間を注ぎ、試行錯誤を重ねても赤字が続く。
変わりはじめた世界
そんな彼らの熱量と本気度、なによりも作られた極上のニットウエアの素晴らしさが、やがて日本の一流バイヤーや重鎮ディレクターたちの目にとまる。
世の中の価値観も大きく変わりはじめた。グローバリゼーションの対極であるローカリゼーションが広がり、持続可能な社会へ向けてシェアリングなどさまざまな動きが普及しはじめた。
東日本大震災を経て、日本でも人々の幸福感や価値観が変化し、〝豊かさ〟の定義が物質的なものから精神的なものへシフトしつつある。
ファッションにも、そうした要素が求められるようになった。
本当の価値を決めるのは、希少性でも価格でもない。そこにどれだけ、つくり手の熱い情熱と魂を込められるかなんだ。(本書での2人の言葉)
今、兄弟のプロジェクトは南アフリカやパレスチナでも進められている。前者は人種差別という問題に、後者は宗教対立による分断という問題に、それぞれ苦しみ続けてきた場所だ。
人々がエゴを超克して真に豊かな世界を築くこと。分断と憎悪、格差を、固有の文化の力で緩和していくこと。イノウエ・ブラザーズの挑戦ははじまったばかりである。
本書は、新しい世界の姿、新しい時代の生き方を教えてくれる、ワクワクする教科書だ。