人が便利さを求めるようになったのは、いつごろからだろう。考古学が教えるところでは、まず、人は石器を手にし、ついで青銅器を持ち、やがて鉄器を使うようになった。これは、より便利な道具を求めるようになったと考えられる。
しかしもっと遡ると、人が両手を自由に使うようになったのは、やはり、便利さを求めてのことだったろうから、人類は発生してから間もなく、本能的に便利さを追い求めてきたといってもいいのではないか。
すると、「不便益」というアイデアは、実は、かなり壮大な転換の兆しなのかもしれない。
本書『ごめんなさい、もしあなたがちょっとでも行き詰まりを感じているなら、不便をとり入れてみてはどうですか? ~不便益という発想』の筆者・川上浩司氏は、京都大学デザイン学ユニット教授。もともとは便利さを求める工学を学んでいた。
2005年に知能システムのシンポジウムで、高機能化や効率化に代わるものとして、「不便の効用を活用する」=不便益を提案した。筆者の定義によれば、便利とは、「手間がかからず、頭を使わなくてもいいこと」「浅薄に手間を省くこと(楽になること)」だ。そして、
不便だからこその効用が得られる、新しいシステムをデザインするための方法論を作りたいと思っています。それを目的として集めた事例と、役立てるための考察が、本書の内容です。
不便益は、単なる懐古主義や復古主義ではない。パソコンもSNSも肯定する。このアイデアを広めるためのサイトもある。そのうえで、便利さを至上の価値とする考え方を疑い、不便なもののなかにも、いや、不便だからこそ、人の利益になることがあるのではないかと主張するのだ。
たとえば、高齢者などにデイサービスを提供する「夢のみずうみ村」。ここが運営する施設には、段差や坂や階段などの日常的なバリアが、あえて配置してある。これは利用者の身体能力を維持するための工夫なので、スタッフもできるだけ介助はひかえて見守るのだという。
このバリアフリーではなく、「バリアアリー」の施設は、現在、国内に4カ所ある。なかなか理解を得るのが難しいようだが、効果はあげているらしい。
さらに、筆者らがデザインした不便益なものを一つ。
「かすれるナビ」。これはナビを利用して移動すると、一度通った道が少しずつ掠れていって、やがてその道と周辺が真っ白になって見えなくなる。効用としては、ちゃんと道を覚えること。
このように不便益とは、
手間をかけ、頭を使わねばならない益
で、
手間をかけ頭を使わされるという不便は、自分を変えてくれる
という。
不便益の6つの性質が挙げられている。
①アイデンティティを与える → 行きづらいからこそ行きたくなる秘湯など。
②キレイに汚れる → 紙の辞書を使うと、辞書のクタクタ感や付箋や手垢、つまり自分と辞書とのインタラクションの痕が辞書のほうに残っている。自分のほうには、その辞書を使うことへの習熟が残っている。
③回り道、成長が許される。
④リアリティと安心 → 手間をかけさせてくれて、自分がかけた手間がモノのコトワリ通りに機能していることを見せてくれる。たとえば石油ストーブ。
⑤価値、ありがたみ、意味 → 一写入魂のフィルムカメラ。
⑥タンジブルである(実際に触れることができる、手触りがある) → カセットテープ、洗濯板など。これは、どちらもいま見直されている。
筆者は、
人間が自ら手をかけ頭を絞ることを、社会が許さなくなっている、ということを実感することがあります。
という。
しかしそれでは、便利さを手にしても、人間としての能力は衰えていくのではないか。その波に抗うのが不便益の思想である。と、ここまで書いてきて、文学を生業としている僕は考える。文学・芸術は、不便益の最たるものではないか。
そうか。だから、ほんとうの文学・芸術は、受け取るのに苦心するけど、自分を成長させてくれるのだ。僕の小説も、不便益です。ちなみに、このエッセーも。
お勧めの本:
『ごめんなさい、もしあなたがちょっとでも行き詰まりを感じているなら、不便をとり入れてみてはどうですか? ~不便益という発想』(川上浩司:京都大学デザイン学ユニット教授/インプレス)