若いころは大人の世界に憧れるもので、僕はホテルのバーのカウンターに坐って寡黙で品のいいバーテンを相手にオンザロックをやったり、白木のカウンターのある小料理屋で熱燗を傾けたりすることを夢見た。
なんのことはない、僕はアルコールがだめだから、結局、大人になっても馴染みの酒場を持つことはできないでいるのだが、むかしはそういう大人が格好いいと単純におもっていた。
もっとも「馴染みの酒場」のように、繰り返しドアを開いて訪れる詩人ができた。その1人が黒田三郎だ。黒田は、日本の戦後詩を代表する詩人の1人で、文学史にきざまれる詩誌『荒地』を創刊した。
僕が黒田の詩を読むようになったのは、彼の詩が生活に密着するものだったことが大きい。つまり、分かりやすかったのだ。10代の後半から20代にかけて、僕は仕事に疲れたサラリーマンが、会社帰りに馴染みの酒場へ寄るように、折に触れて彼の詩集を手にした。
それから関心が小説に移って、あまり詩を読まなくなり、黒田の詩からも遠ざかった。しかし最近になってまた詩を読むようになって、古書店で黒田の詩を買い求めた。先日、電車に乗って詩集を読んでいたときのことだ。
僕の眼は、ある一節の上で止まった。その瞬間、一昨年に喪った愛犬の思い出があふれだした。そら、という牡の犬で、7歳だった。保育士をしている長女が、鼻が腫れていると言い出し、よく見ると、確かに少し瘤のようなものができているので医者へ連れて行った。
そのときにはまだ腫れは大きくなく、はっきりと診断を確定するには全身麻酔をかけて、CTを撮る必要があるといわれ、そこまでしなくてもいいだろうと様子を見ていた。すると、鼻から出血するようになり、腫れもだんだん大きくなったので、念のために大学病院へ連れて行った。
診断の結果は、癌だった。余命数ヵ月と宣告された。一緒に病院へ行った僕と妻は車の中で泣いた。そのうち落ち着いて、残された時間を悔いのないものにしてやろうといいあった。
医者に、犬が好きなことを訊くと、散歩、おいしいものを食べること、飼い主とのスキンシップと教えられた。それまで散歩は、朝は妻、夕は僕の担当で、妻はいつも30分ぐらい歩くのだが、僕は無精でだいたい5分程だった。
しかし、その日から僕は、そらが歩きたいだけ歩かせてやるようになった。行く場所も、彼の好きにさせた。すると、たいてい1時間程は散歩するようになった。散歩しているそらは、機嫌良く、とても元気で、うれしくてたまらないようだった。
僕は、はあはあ息を切らせながら、この時間が永遠に続くようにと、祈るような気持ちになった。その気持ちを黒田の詩がよみがえらせた。
自己嫌悪と無力感を
さりげなく微笑でつつみ
けさも小さなユリの手を引いて
僕は家を出る
冬も間近い木もれ日の道
その道のうえを初夏には紋白蝶がとんでいたっけ
「オトウチャマ イヌよ」
「あの犬可愛いね」
歩いているうちに
歩いていることだけが僕のすべてになる
小さなユリと手をつないで
これは病妻が入院して、小さな娘ユリと2人で暮らす黒田が、その日常を綴った詩集『小さなユリと』に収められた「小さなあまりにも小さな」だ。ユリと2人で歩いている黒田の世界から、煩わしいことがすべて消えて、歩いていることそのものが、生きていることになる、という瞬間を綴っている。
僕のなかで、小さなユリが、小さなそらになった。僕は電車の座席に坐り、詩集のページを開き、その一節を噛みしめ、ぼんやりと窓の外を流れていく風景を眺めていた。僕の心の眼は、うれしそうに歩いているそらの姿を見つめていた。
短い時間だったが、そのとき僕は、ただの悲しみではない、なにか透明な、美しいものを味わっていた。そらは、黒田の詩の一節とともに生きている。そう、おもった。これは、黒田の詩のおかげである。詩の功徳は、このようなところにも現われる。
そらが亡くなって、数ヵ月のあいだ1日1時間の散歩を続けた僕は、ぽっこり出た腹が平らになり、妻からは、そらからスマートな体をプレゼントされたといわれたものだ。もっともそれから1年が過ぎて、腹は元通りになったのだが。
お勧めの本:
『黒田三郎詩集』(黒田三郎著/思潮社)