連載エッセー「本の楽園」 第32回 近代文学を超えて――吉田健一の世界

作家
村上政彦

  少し前のこのコラムで吉田健一の食にまつわるエッセーと短篇小説を取り上げた。しかし彼の書くものは、そればかりではない。デビューしたころは批評家として活躍したし、のちになって長篇小説も書いた。
『東西文学論』は、彼の代表的な評論だ。明治以降に日本人がどのようにヨーロッパから文学を受けとめたかを論じているので、近代の見直しを迫られているいま、新しい時代を考える参考になる。

 何か異質のものが体の中に入って来て、それを自分なりにどうにかしなければならなくてじたばたするというのでなければ、文学をやる気持ちなどというものは考えられない。そして日本の現代文学というものの性格上、その異質のものは必ず外国の文学作品だということがここでは言いたいのである。

 ここでいう「外国」とはヨーロッパのことで、前段で日本人にとってのヨーロッパ文学を論じ、後段で森鷗外、夏目漱石、永井荷風、横光利一、中村光夫など、日本人の新帰朝作家にフォーカスし、彼らが具体的にヨーロッパ文学を受けとめる様子、つまり「じたばた」のさまを見ていく。
「じたばた」の度合いが、いちばんひどかったのは漱石だった。吉田がそういっているのではない。作家がイギリス留学で、どのような生活を送ったかをしるしていけば、そういう結論になる。
 有名な話だが、漱石はイギリス留学で心を病んだという。彼はヨーロッパ文明を受け止める過程で、さまざま考えつめたあげく、精神をきしませたのだ。
 逆に、もっともうまくヨーロッパ文学を受けとめたのは、ドイツに渡った森鷗外である。
 ここは吉田の言葉を引こう。

 鷗外は我々が今日言う意味での文学がまだ日本になかった時代に、ドイツに行ってドイツ人になることで、個々の文学作品の内容を知るのみならず、文学作品というものが形をなす経路を、ヨオロッパの大地にあってそこでの生活の面からも自分のものにした。

 外国に行って帰って来た文士の中で、彼程一つの文明の背後にある歴史とか伝統とかいうものに対して鋭敏な感覚を持っていた人間はないのである。 

 ヨーロッパの精神の特徴は普遍性をめざすことで、日本文学はそれを体現したヨーロッパ文学に倣って近代文学をつくりあげてきた。その結果として、日本文学は若返った。たとえば明治初期の人々に比べて、ヨーロッパ文学を読んだあとの、僕らの眼には、日本の古典文学が美しく映る。
 また、そうして若返った日本文学には、新しい文学の可能性が秘められている。『金沢』という小説は、そういう新しい日本文学のひとつかもしれない。冒頭、

 これは加賀の金沢である。

と書き出すのだが、

尤もそれがこの話の舞台になると決める必要もないので、ただ何となく思いがこの街を廻って展開することになるようなのでそのことを断って置かなければならない。

と続く。
 すでに、僕らは新しい文学の世界に取り込まれている。
『金沢』という300枚の小説が、どういう作品なのかを説明するのは難しい。主人公はいる。東京・神田で屑鉄商を営む内山という男だ。彼が金沢に流れる犀川の高台に古民家を借りて、金沢暮らしを愉しむ。
 物語もある。内山は、出入りの骨董商に導かれて、料理屋やこの町の住人の家を訪れ、ひっそりと酒宴を繰り広げる――こう書けば、どこが新しいのかとおもわれるかもしれないが、読み進めていくうちに、近代小説の文法を破っていることに気づく。
 住人の家に招かれるのも、見知らぬ人物が、ただ町で見かけたという理由で、骨董屋を通じて一席設けたいと申し出があるのだ。そして、家に訪ねていくと、柔和な表情の老人が、「一献差し上げたくて、」という。
 そこで交わされる会話も、詩のような哲学的な問答のようなもので、日常的な世間話からは程遠い。描かれる風景や人物も、僕らが知っている小説の風景や人物のようには描かれない。
 比喩的な言い方をすれば、カメラのレンズに1枚の紗がかかっていて、向こう側に見える世界は朦朧としている。それがずっと続くのだ。これは文体の効果が大きい。

 内山は雨が好きだった。それは雨が出来損ないの町も先ず見られるものにして町らしい町ならばその風格を増すばかりでなくて内山自身が雨が降っているとその音と何かその時にいる場所の他は水の中になっている感じで神経が鎮められるようである為だった。従ってそれは雨でも風を伴わない静かな雨でなければならなくてその音はそれそのものよりも雨垂れの音が望ましかった。そういう具合に降っている時に東京が一段と風格がある町になるかどうかは確かでなかったが金沢は明らかに一層この金沢という町になって或る朝内山が金沢の家で目を覚ますとちょうどその雨垂れの音が聞こえていた。まだガスを付けずにいられる程は春が近づいていなくて起きてから障子を開け放すという訳にもいかなかったが締め切った中でその音を聞きながら内山は金沢に来ているのだと思った。

 薄明の、無重力の空間を、ずっと浮遊している感じ――読んでいるうちに、この感覚がくせになってくる。読者は特別な時間を味わえる。こんな小説を書いたのは、吉田健一のほかには、前にも後にもいない。

お勧めの本:
『東西文学論・日本の現代文学』(吉田健一/講談社)
『金沢・酒宴』(吉田健一/講談社)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「猟師のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。