僕は9歳のときに父を喪った。その後は母と祖母に育てられた。
母は、酒場で「ママさん」と呼ばれる勤めをしていた。だいたい昼頃まで寝ていて、夕刻に近くの銭湯へ行き、きれいに化粧をして着物を着る。三面鏡の前で、ぽんと帯を叩いて出かけて行く。帰るのは深夜である。
家族というのは不思議なもので、母と祖母は特に話し合ったわけでもないだろうが、いつか母が「父」になり、祖母が「母」になった。
僕と母とは、母と息子であるはずなのに、実態は父と息子である、といういびつな関係になった。
「父」は息子にとって厄介な存在だ。「母」よりも距離があって、つきあいづらい。僕は、いつも母とのあいだに妙な溝を感じていた。母はそれを意識していたのか、話したことがないのでわからない。
端的にいって、母は冷たい人だった(と、息子の僕は感じていた)。僕は、母には子供への愛情がないのだとおもっていた。あとになって、それは彼女がただ不器用だっただけで、普通の子供思いの母だったと知るのだが、まだ子供だった僕には、そんなことはわからなかった。
20歳前後のころ、ある出来事があって、ああ、この人は、やはり僕の母親だ、僕はこの人に愛されている、そしておそらく、この人はこれまでも同じように、僕のことを愛してくれていたのだ、と思い至った。
ただ、このあたりの事情をうまく説明するのは難しい。いろいろなものが絡み合っていて、とても込み入っているのだ。
小説を書くことが仕事だからといって、何も自分が経験したことを、すべて言葉にしてみせることはない。僕は小説家であっても、ひとりの人間である。人は誰しも、なかなか言葉にできない感情をかかえていて、それは特別なことではない。
このあいだ、たまたま書店で、『言葉の鍛えられる場所』という表題に惹かれて、この本を手に取った。著者の平川克美氏は、何となく名前は知っているけれど、これまでその著作を読んだことはない。しかしぱらぱら読み始めると、どうもおもしろい。
一言でいうと、詩についての本である。若いころの思い出や親の介護などの私的な話題から、福島の原発事故やヘイトスピーチなどの社会問題に絡めながら、戦後詩から現代詩にいたる、さまざまな詩を読み解いていく。
僕は小説家ということになっているが、10代のころは、詩を読んだり書いたりしていた。だが、詩人になるまでに関心が小説へ移って、いつか詩とは疎遠になった。でも、ずっと詩のことが気になってはいた。
この本を読んで、あらためて自分が、いまになって詩を求めていると知った。それも生きるために必要な詩を。
「これか……」とおもったくだりがあった。20歳前後のころ、母との和解にいたった感情の在り方を表現した詩を見つけたのだ。著者によれば、現代詩の領域では有名な詩だというから、もしかすると、若いころに読んだことがあったかもしれない。
夕暮れの寺の境内を少年と父が歩いていると、向こうから身重らしい白く若い女が来る。少年は女の膨らんだ腹を見つめ、胎児のうごめきを連想する。そのあと――
女はゆき過ぎた。
少年の思いは飛躍しやすい。その時 僕は〈生まれる〉ということが まさしく〈受身〉である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱり I was born なんだね――
父は怪訝(けげん)そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
――I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――
その時 どんな驚きで 父は息子の言葉を聞いたか。僕の表情が単に無邪気として父の顔にうつり得たか。それを察するには 僕はまだ余りに幼かった。僕にとってはこの事は文法上の単純な発見に過ぎなかったのだから。父は無言で暫く歩いた後、思いがけない話をした。
――蜻蛉(かげろう)と言う虫はね。生まれてから二、三日で死ぬんだそうだが それなら一体 何の為に世の中へ出てくるのかと そんな事がひどく気になった頃があってね――
僕は父を見た。父は続けた。
――友人にその話をしたら 或日 これが蜻蛉の雌だよといって拡大鏡で見せてくれた。説明によると 口は全く退化していて食物を摂るに適しない。胃の腑を開いても 入っているのは空気ばかり。見ると その通りなんだ。ところが 卵だけは腹の中にぎっしり充満していて ほっそりした胸の方にまで及んでいる。それはまるで 目まぐるしく繰り返されている生き死にの悲しみが 咽喉(のど)もとまで こみあげているように見えるのだ。淋しい 光の粒々だったね。私が友人の方を振り向いて 〈卵〉というと 彼も肯いて答えた。〈せつなげだね〉。そんなことがあってから間もなくのことだったんだよ。お母さんがお前を生み落してすぐに死なれたのは――。父の話のそれからあとは もう覚えていない。ただひとつ痛みのように切なく
僕の脳裏に灼きついたものだった。
――ほっそりした母の 胸の方まで 息苦しくふさいでいた白い僕の肉体――。(「I was born」吉野弘)
著者はこの詩を命の連鎖という文脈で引用しているのだが、僕の受け取り方は違った。僕は、あのときに抱いた、とても込み入った感情が、ここに表現されていると感じたのだ。こういうところに、詩の自由度がある。
また、詩を読みたくなった。それが、この本を手にした収穫のひとつである。
お勧めの本:
『言葉の鍛えられる場所』(平川克美著/大和書房)
『吉野弘詩集』(吉野弘著/ハルキ文庫) ※「I was born」収録