アウシュヴィッツ駅に到着すると、輸送されて来たユダヤ人は一列に並ばされた。その先にはナチスの将校が立っていて、優雅な仕草で右手の人差し指を左右に動かし(たいていは左に)、人々を選別していた。
右に振られた者は右へ流れ、左に振られた者は左に流れる。フランクルが緊張していると、人差し指の動きが止まり、あちこち体を調べられ、あらためて右へ振られた。彼が人差し指の動きの意味を知ったのは夜のことだった。
右に振られた者は強制収容所での重労働が待っていて、左に振られた者には死のガス室が待っていた。翌日、友人の姿がないことに気づいて、近くの男にいうと、ある建物の煙突からのぼっている煙を示し、あの中にいるよ、といわれた。建物は焼却炉だった。
収容所に入った者は、まず、名前を奪われた。ただの番号になるのだ。兵士は彼らを番号でしか呼ばない。フランクルは、被収容者119104――それ以外の何者でもない。
番号の背後にあるもの、この命の背後にあるものなど、これっぽっちも重要ではなかった。ひとりの人間の運命も、来歴も、そして名前すら
いったんは死の選別を免れたとしても、強制収容所での日常には、常にガス室行きの恐怖があった。健康でいなければいけない。過酷な重労働に耐えなければならない。病気になったり、働き方が怠慢とおもわれたりしたら、もう、明日は来ない。
収容所では、「内面がじわじわ死んでいった」。日に1回、300グラムのパンと薄い水のようなスープを与えられ、あとは働きづめの日常では、仲間に暴力を振るい、物を盗むことが平気にならないと、生き残れない。いい人は淘汰されていく。生きるためには、人間ではなく、動物になる必要があった。
それでも人間性を維持しようと努力する人々がいた。美しい夕陽に見とれ、歌をうたい、詩を詠み、笑い話に興じる。そして、祈る。彼らは、未来を信じ、仕事や家族など自分を待ってくれているものに望みを託した。
「内的なよりどころ」を得て、内面を守ること。そうすることで、人間としての生をまっとうできる。こういう人々は、ごく少数ではあったが、収容所での苦しみを糧として、より内面を深めた。
まっとうに苦しむことで精神的な高みにいたる。あえて苦しみを求めるのではない。苦しみは、すべての被収容者に平等に与えられている。問題は、苦しみとどう向き合うかだ。動物になって狡猾に苦しみを回避するか、人間としてまっとうに苦しむか。
自分を見失わなかった「英雄的な人々」は、隣人に思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲った。
人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。
まっとうに苦しむことは、それだけでもう精神的になにごとかをなしとげることだ。
たとえば、強制収容所で亡くなった若い女性。数日後に自分が死ぬこと悟っていながら心が澄んでいた。
「運命に感謝しています。だって、わたしをこんなにひどい目にあわせてくれたんですもの」
彼女はこのとおりにわたしに言った。
「以前、なに不自由なく暮らしていたとき、わたしはすっかり甘やかされて、精神がどうこうなんて、まじめに考えたことがありませんでした」
その彼女が、最期の数日、内面性をどんどん深めていったのだ。
「あの木が、ひとりぼっちのわたしの、たったひとりのお友だちなんです」
彼女はそう言って、病棟の窓を指さした。外ではマロニエの木が、いままさに花の盛りを迎えていた。板敷きの病床の高さにかがむと、病棟の小さな窓からは、花房をふたつつけた緑の枝が見えた。
「あの木とよくおしゃべりをするんです」
わたしは当惑した。彼女の言葉をどう解釈したらいいのか、わからなかった。譫妄状態で、ときどき幻覚におちいるのだろうか。それでわたしは、木もなにかいうんですか、とたずねた。そうだという。ではなんと? それにたいして、彼女はこう答えたのだ。
「木はこういうんです。わたしはここにいるよ、わたしは、ここに、いるよ、わたしは命、永遠の生命だって……」
フランクルは、1905年にウィーンで生まれ、アドラー、フロイトに師事して、精神医学を学んだ。第二次世界大戦中の、ナチスの強制収容所における体験を『夜と霧』として発表した。
死と隣り合わせの強制収容所という極限状況のなかで、それでも人間としての尊厳をもって生きようとする人々の姿はまぶしい。いまは生きづらい時代だ。この本に励まされる人は少なくないだろう。
おすすめの本:
『夜と霧 新版』(ヴィクトール・E・フランクル著/池田香代子訳/みすず書房)