本が好きだ。この齢(半世紀は過ぎました)になると、人並みにさまざまな経験を重ねてきて、何をしてもときめくということは、あまりない。ところが、本を買って、最初のページを開くときには、いつもときめいている。
なんだろう、この感じは。つらつら考えてみると、そう、恋に近い。
好きな人と出会って、つきあいが始まる。そのときの昂揚した気分――本を開くときは、その感じである。そうか。僕は、本に恋をしているのだ。
飽き性の僕だが、本には飽きない。いや、書庫から消え去る本もあるから、いい本には飽きないということか。そして、世の中には、あなたが思っているより、いい本はたくさんあるのだ。
とりわけ、僕は短篇小説が好きだ。若いころから、いい短篇小説が書ければ小説家として一人前とおもってきた。ところが、残念なことにデビューしたばかりのときは、なかなか発表する媒体に恵まれない。出版社は、商業的な理由から、新人作家に100枚程度の中篇を求めるのだ。
それで僕の短篇小説への欲求は、もっぱら読むほうへ向かった。『川端康成文学賞全作品Ⅰ』、『Ⅱ』は、僕の短篇小説への渇きを満たしてくれた作品を収めたアンソロジーである。
川端康成といえば、日本近代文学を代表する小説家の1人だ。「掌の小説」と称して短編小説に力を入れた。1972年に亡くなってから半年後、「財団法人川端康成記念会」が設立され、翌年に短篇小説を対象とする「川端康成文学賞」ができた。
当時の審査員は、小説家から、永井龍男、船橋聖一、吉行淳之介、批評家から中村光夫の4人。第1回(1974年)の受賞作は、上林暁の「ブロンズの首」。以後、第25回(1998年)の受賞作である村田喜代子の「防潮」までを「川端康成文学賞」第1期とする。
Ⅰには第1回から13回、Ⅱには14回から25回までの作品を収める。2作受賞の年も少なくないので、かなり読み応えがある。それぞれの巻から1作ずつ紹介したい。
Ⅰからは小川国夫の「逸民」。小川は、1927年、静岡に生まれた。東京大学国文科中退後、同人誌『青銅時代』を創刊。自費出版した『アポロンの島』が島尾敏雄に認められて文壇に出る。
この作品については、吉行淳之介の分かりやすい選評があるので引いておく。
駿河湾に近い土地に住んでいる「私」と、散歩の途中で知り合った人々との交流が主になっている。「私」は山道を少し歩いたり、麓の池を半周したり、毎日軽い散歩をする習慣である。こういう爽やかな風景の中で、『私』は行きずりの人たちとの爽やかな交流を持つ。堤という初老の男、いつも時刻を教えてくれるジョギングをしている青年、マラソンランナーでハードな練習を続けている河北由太郎。しかし、すべての登場人物はその体内に暗い情念を抱えている。開かれた風景の一隅で、暗い炎が燃えている。
池には、最近放し飼いにされた七羽の鵞鳥(がちょう)がいる。通行人にしばしば挑みかかる、粗暴で不快な鳥である。この鵞鳥にたいする殺意を、登場人物のすべてが持っている。ある日、この鵞鳥がすべて殺された。下手人は、作者はジョギングの青年を頭に置いているようだが、はっきりは描かれない。しかし、その曖昧さは読者に欲求不満を起こさせない。こういう複雑な作品を四十枚足らずで描いた小川氏の手腕に、感心した。
吉行は小説もいいが、読み功者でもある。この選評も「逸民」という作品の肝を押さえ、読者がすっきり呑み込めるようにまとめている。なかなか、こうはいかない。僕が続けて芥川賞の候補になっていたころ、世話になっていた編集者が、吉行さんが君の作品を支持してくれている、彼が評価するのは、作品の水準が高いということだ、といわれて、いい気になったものだった。
さて、僕が小川国夫を読むようになったのは、まだデビューするまでのころだ。当時、若くて世界の茫漠さにとまどっていたので、明確な彫りのある、イメージの喚起力が強い文体で、くっきりとした世界を描く彼の小説に惹かれた。小川の短篇は精神安定剤のようなものだった。
「逸民」でも文体は変わらない。ただ、作品の世界は、初期のころのようなくっきりとした印象が希薄になり、やや靄(もや)に包まれたようになっている。これは小説家としての成熟によるものか。
Ⅱからは、三浦哲郎の」「じねんじょ」。三浦は、1931年、青森に生まれた。早稲田大学仏文科卒業後、文学を志望し、井伏鱒二に師事する。僕は『海燕』という文芸誌の新人賞をもらってデビューしたのだが、そのときの選考委員の1人が彼だった。受賞作の「純愛」は、ゲイの少年が、ストレートの少年に恋をする中篇で、三浦は「文字通り純愛の切なさが表現されている」と支持してくれた。
実は、三浦も、僕はデビューする前から愛読していた作家だったので、とてもうれしかった。ただ、僕は人見知りで積極的に人と交わるのが苦手だったので、自分から挨拶することができず、結局、彼が亡くなるまで言葉を交わしたことはなかった。
「じねんじょ」は、14枚の短篇。しかし堅固で、立ち姿が見事である。
四十近い芸妓の小桃は、馴染みの客が香港へ連れて行ってくれるというので、パスポートを申請するため、戸籍抄本を取りに行き、母から死んだと聞かされていた父・松蔵が生きていることを知った。
母は売れっ子の芸妓だったころ、松蔵と出会って小桃を産み、やがて縁が切れ、置屋を継がせるつもりでいた小桃には、男親など不要と思い、死んだといっていた。小桃は、一度だけ、父の顔を見ておきたいと、母に連絡を取ってもらう。香港旅行から帰ったら、街のフルーツパーラーで、短時間なら、と返事があった。
小桃は母親譲りの山繭紬(やままゆつむぎ)を着て出かける。そこにいたのは、「手編みの厚ぼったいジャケツの上に早くもチョッキを重ね着した」「日焼けした皺深い」老人。2人は向かい合ったまま、会話らしい会話もなく、クリーム・ソーダを飲む。
別れるとき、父は、じねんじょを手渡す。
今朝、おらが早起きして、自分で山から掘ってきた、これを土産に持って帰ってけれ。お前(め)のおふくろはこのじねんじょが好物でな。精が点くから、これで売れっ子のころを凌いだものよ。ま、二人で麦とろにでもして食ってけれ。
短い中に、生の実相を淡々と描いて、感心するしかない。まったく無駄のない文体は、短篇小説のひとつの頂点といってもいい。
アンソロジーの愉しみは、どこから読んでもいいことだ。ちょっと時間を見つけて、おもしろそうな作品を拾い読む。ただ、そうするには、『川端康成文学賞全作品』の分厚さは、うれしいのだが、不便でもある。文庫は、まだ出ていなかったかな。
お勧めの本:
『川端康成文学賞全作品Ⅰ』、『川端康成文学賞全作品Ⅱ』(新潮社)