中学生のころに立原道造めいた詩を書いていた。いや、詩らしきものといったほうがいいか。憶えているのは、つたない言葉のつらなりだ。すぐに関心が小説に移って、結局、僕は詩人にはなれなかった。
ひとは、どのようにして詩人になるのだろうか。『我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ!』は、日本を代表する詩人・吉増剛造の自伝だ。誕生から現在までを自作の詩を織り込みながら語っていく。
吉増は、1939年に東京で生まれた。幼いころはおばあちゃん子で、祖母の、「大東亜戦争だよ」という声の印象が心に刻まれた。小学校へ入る前に、父の故郷である和歌山へ疎開させられた。
この経験から、みずからを、
伝達不可能な非常に暗い特殊な時代の空気のかたまりみたいなところで生まれてきた子
という。それが詩人としての出発点にある。戦争が終わって東京に戻り、福生(ふっさ)第一国民小学校へ入る。勉強はよくできたのだが、同級生らに虐められ、ひきこもりの「独り性」になった。
5年生で私立学校へ転じた。小・中・高の一貫校で、中学生になったころ授業で詩を書いて、すでに手応えを感じた。教師にも褒められた。高校は、当時、進学校だった立川高校に進み、慶應大学に入る。
家を出て四畳半の部屋で独り暮らしを始めた。1日に3冊の本を読んだ。バーテンダーになろうと思って専門学校へ通った。ときどき詩は書いていたようだ。このころに出会った鮎川信夫の『現代詩作法』が「現代詩入門の戸口」になった。
船乗りになろうと思って家出するものの、手持ちの金が尽きて帰る。あいかわらず、ひきこもってひたすら本を読み、外へ出ると映画館のはしごをした。1日に3館はまわった。観た映画は、『死刑台のエレベーター』や『地下鉄のザジ』など、懐かしい名画が並ぶ。
大学を出て、国際情報社という出版社に入る。写真雑誌の編集をした。しかし半年で辞めて、またひきこもった。精神的にぎりぎりのところまで自分を追い込んで、なかばノイローゼ状態になって、何かをつかもうとする。本能が、そうさせるのだという。
そして、「言葉を枯らす」。普通に使われている言葉を自分の中から消し去り、詩の言葉を呼び込むということだろうか。そういう苦闘の末、1964年に処女詩集『出発』(新芸術社)を出版した。
次に、日本画や美術の専門誌を出していた三彩社に入り、また編集者として働く。このときの5、6年で代表作の『黄金詩篇』を書いた。
麻雀やって大酒飲んで次の日の朝は二日酔いで喫茶店で詩を書いてた。
これが高見順賞を受けた。
勤めてて時間があまりない、というのをわざと活かすのね。時間がたっぷりあったらできないもん。だからやっぱり非常時性
非常時というか、ぎりぎりのとこまで追い込んで、裸の魂に触れるところまで行かないと表現というのは決して成立しないというのは本当に一貫している。
プロのボクサーは、眼の前にパンチが飛んで来ても瞼を閉じないらしい。また、F1レーサーは、常人ならアクセルを緩めてしまう速度でも、さらに踏み込むという。つまり、人間の本能にあらがわないと、向こう側の世界は見えてこない。詩人は、精神の世界でそれを行う。
高見順賞をうけたあと、三彩社を辞めて原稿の執筆と講演で生計を立てるようになった。詩人として暮らすようになって以降は交友関係も広がり、中上健次や柄谷行人ら文学者、映像作家ジョナス・メカスらとつきあう。ひきこもりを自称する詩人の、人とのまじわりもなかなか味わい深い。
さて、詩人の自伝なので、詩の引用もしておこう。吉増の詩は、実際に彼の詩集を手に取ってもらいたい。ここでは、この自伝の中で、唯一、引用されている他の詩人(吉増曰く非常時の詩人)の詩を紹介する。
小石はなんていいんだ
道にひとりころがっていて
経歴も気にかけず
危機も恐れない
あの着のみ着のままの茶色の上衣は
通りすぎていった宇宙が着せたもの
『エミリ・ディキンスン詩集』(中島完訳/国文社)
お勧めの本:
『我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ!』(吉増剛造著/講談社現代新書)
『黄金詩篇』(吉増剛造著/講思潮社)