連載エッセー「本の楽園」 第21回 ぶんがくが すき

作家
村上政彦

 これまで文学は、よく危機を主張してきた。危ない、といって、注目をあつめては延命する。だから、語られるところの文学の危機は、文学の内部の事情に由来していた。ところが、最近になって、延命の手段としての危機とはちがったほんとうの危機がきている。
 よくいわれる出版不況による読者の減少は、僕から見れば、それほど問題ではない。減少とはいっても、ある程度のコアな読者はいる。フローベールの『ボヴァリー夫人』は、初版が1500部だったという。それから考えれば、いまは新人の純文学の作品でも5000部が出版される。
 問題なのは――いや、ここからは『文学が好き』(荒川洋治著)に語ってもらおう。

 文学は人間の精神生活をうるおした。人は文学書をひもとき、その文字のなかにこめられた人間の言葉を読みとり、自分の生き方を夢を、ふくらませた。それは永久に続くかに思えたが、ほんの最近になって、文学は急速なスピードで、かろんじられるようになった。

 そうなのだ。文学は必要ないという考えが現れたのだ。いまの文学の危機は、内部の事情に由来するのではなく、外部の態度に原因がある。それは大学の文学部を廃止してしまえ、という乱暴な議論になっているようだ。
 著者は、そういう風潮にどうあらがうか。

 こんな時代だからこそ、打ち明けてみたくなった。みなさん。ごめんなさい。ぼくはとても、文学が好きです。

 文学好きのカミングアウト。理を尽くして、文学有用論を説くのではない。しかし考えようによっては、これは強い。好き嫌いだから、理屈じゃないのだ。そして、本書の構成は、本にまつわるエッセー、書評など、いかにも文学好きならではの文章が並ぶ。読んでいくうちに、文学っていいな、と思わせる仕組みになっている。

 たとえば、日本文学を挙げれば、結城信一の小説、外国文学では、東ドイツの作家クリスト・ハインの小説。著者の好みは、幹線道路ではなく、路地や裏通りを歩くことだ。幹線道路に沿った街並みは、にぎやかで、はなやかで、それはそれで興味を惹く。
 しかし街の風景は、それだけではない。路地や裏通りを歩いてみれば、街のちがった表情が見える。街に奥行きが生まれる。著者の試みは、文学そのものを豊かにし、それを読者に供するのだ。
 かつて気の利いた家の本棚には、「日本文学全集」「世界文学全集」があった。

 ただそれが「ある」ことで、文学と交際している気持ちになれた。それは人間としても、家としても、少しもおかしなことではなかったように思う。

 いま家の本棚にそういう光景はあるか。

 文学がないために、見えなくなることは多い。また、人間が見えなくなるときは、文学の姿が消えているときである。

『文学の空気があるところ』は著者初の講演集。内容は、やはり文学が主題で、小説を中心として詩歌にも触れる。ここでは聴衆に語りかける環境のせいか、少しばかり理に訴えている。

 文学は実学だ、とぼくは思います。人間にとってだいじなものをつくってきた。あるいは指し示してきた。虚学ではない。医学、工学、経済学、法学などと同じ実学です。人間の基本的なありかた、人間性を壊さないためのいろんな光景を、ことばにしてきた。文章の才能をもつ人たちが、人間の現実を鋭い表現で開示してきた。だから文学というのは人間をつくるもの、人間にとってとても役立つもの、実学なのだと思います。それをいま必要以上に軽んじようとしている空気がある。実学と一般に言われるものが、医学や工学や経済学や法学が、ほんとうに人間のためになっているか、きわめてあやしい。そういうなかで文学の現実的な力を再認識しなくてはならないと思います。

 だからこそ、かつては文学全集を、

 採算に合わなくても、出す。後世のためにも出しておきたい。そう考える人が大勢いた、ということを忘れたくない。

 この講演集でも、著者の関心の中心は、文学の愉しみを与えることだ。いちばんの読みどころは、北海道から九州・沖縄まで、各地を舞台にした小説、短歌、俳句を選んで、地域ごとに解説していく「名作 あの町、この町」。ご当地グルメならぬご当地文学。これはおもしろい。
 2冊を読み終えると、文学の満漢全席を味わった気分になる。味もいいし、栄養もたっぷりだ。これこそ、文学不要論へのもっとも効果的な反論ではないだろうか。

お勧めの本:
『文学が好き』(荒川洋治著/旬報社)
『文学の空気があるところ』(荒川洋治著/中央公論社)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「猟師のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。