ミニマリズムという言葉がある。もとは芸術の分野で使われていたが、最近は簡素で質朴な生活の試みを指すこともあるようだ。衣食住にわたって、不要なものを削ぎ落とし、極めてシンプルな暮らしを送る人々をミニマリストというらしい。
文学の領域でミニマルな形式といえば、俳句がおもいあたる。季語を用い、「五七五」の17音で世界の在りようを言い止める。しかし季語も、17音の定型も捨てた、さらにミニマルな自由律俳句がある。
ミニマルな暮らしを送りながら、ミニマルな自由律俳句をうたった俳人の代表のひとりに、尾崎放哉(おざき・ほうさい)がいる。
1885年に鳥取で生まれた。10代のなかばから短歌や俳句をつくるようになる。やがて名門の第一高等学校へ進み、一高俳句会に参加。そこで自由律俳句の提唱者である荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい)を知る。
東京帝国大学法学部を卒業し、東洋生命保険(のちの朝日生命)に入社する。課長まで出世するが、突然の罷免を受け、退職。ここから放哉の下降が始まる。一方、井泉水は自由律俳句の句誌『層雲』を創刊。放哉の句も掲載される。
放哉は、人生の活路を見出すべく、外地の朝鮮や満洲に向かうが、結局、帰国して、妻と別居し、寺男に身を落とす。このころ井泉水は、「放哉君の近作は注目すべきものがある」と、彼の句を認める。
放哉は、寺を転々とし、小豆島に向かう。そこで小さな庵に入る。南郷庵と呼ばれるその庵が終(つい)の棲家(すみか)で、彼は尾崎家に廃嫡を願い出で、ひっそりと息を引き取る。
社会的な地位を捨て、家族を捨て、たった独りで生きていくことを選んだ放哉の生のありようを、たとえば石のようだといってみようか。南郷庵に入ってからの暮らしを書いた随筆『入庵雑記』の一節。
石は生きて居る。どんな小さな石ツころでも、立派に脈を打つて生きて居るのであります。石は生きて居るが故に、その沈黙は益々意味の深いものとなつて行くのであります。
雨が降らうが、風が吹かうが、只之、黙又黙、それで居て石は生きて居るのであります。
そして、風雨に晒された石の沈黙が破られたときに、ふっとこんな呟(つぶや)きが洩れる。
咳をしても一人
そして、石はまた沈黙する。放哉の句は、大きな沈黙を背負っている。
放哉はまた、詩人として生きることを選んだ。病状の篤いことを案じて入院を勧めた井泉水に、自分を南郷庵に残してくれと訴える書簡がある。
放哉は勿論、俗人でありますが、又、同時『詩人』として死なしてもらひたいと思ふのでありますよ……私には、時々、思ふのですが、慥(たしか)に、『詩人』としての血液が、どつか、脈打つて居ります(学生時代からでありました)、何卒『詩人』として、死なしてもらひたひ……。
放哉にとって生きることは句作をすることだった。生きることと俳句を一致させようとしたとき、たとえば、このような句が生まれる。
足のうら洗へば白くなる
この句には表現を超えた生そのもののような手触りがある。これは井泉水が主唱した自由律俳句の理想形でもあった。
俳句は人である、心境であるということ――作品が芸術なのではなくて、純粋に生きることが芸術なのだということは、層雲の主唱するところである。(井泉水)
放哉の句境を味わってもらいたい。
入れものが無い両手で受ける
茄子もいできてぎしぎし洗ふ
雨の幾日がつづき雀と見てゐる
小さい火鉢でこの冬を越さうとする
一人分の米白々と洗ひあげたる
夕飯たべて猶陽をめぐまれている
海が少し見える小さい窓一つもつ
おすすめの本:
『尾崎放哉全句集』(村上護編/ちくま文庫)