出版不況といわれながら、いまも編集者は人気の職業のようだ。このあいだ聞いた話だが、僕も著作を出した大手の出版社では、採用の枠が6人のところ、2万に及ぶ応募者がいたという。
僕は知り合いの編集者の顔を思い出しながら、彼もそんな競争をくぐり抜けてきたのだな、と感慨深かった。しかし、編集者という仕事の何がそれほど人を惹きつけるのだろうか。
『時代を創った編集者101』は、黒岩涙香、宮武外骨という伝説の編集者から始まって、まだ存命中(刊行時の2003年現在)の編集者までを取り上げている。人物別に生涯・業績などを短いコラムにまとめているので、読み応えのある人物百科の趣もある。
例外はあるものの、執筆を担当しているのは、ほぼベテランの編集者ばかりだから、編集者という仕事の肝をとらえた行き届いた文章が並ぶ。興味のある編集者の項目を、ぱらぱらとめくるのもいいが、順序立てて読んでいくと、年代記的な構成になっているので、明治以降の近・現代の出版史を通観もできる。
また、一般にも馴染みのある、いわゆる文学史では、作家が中心になっていて、彼らを支えた編集者はほとんど扱われていない。多くの文芸編集者が登場するこの本は、文学史に新たな照明を当てる試みでもある。
先年亡くなった批評家の秋山峻氏と語らったとき、僕の小説に編集者がこんな直しを入れて、こんな対応をした、と打ち明けたら、「文学をつくる現場の話だなー」と感じ入っていた。実は、世間で思われているより、創作の現場で編集者の果たす役割は大きいのだ。
編集者のいちばん分かりやすい定義は「本をつくる人」だろう。しかし、彼らの仕事の内容も時代によって変遷がある。まず、出版史の初期では、出版社を興すことから始めなければならなかった。そして文章も書く。最後にそれを編集して本にする。
やがて当時を代表する出版社が出揃っても、編集者が文章を書くのは珍しくなかった。いや、生活のために編集者をしながら文章を書く者もいた。「編集者は書かない。書かせるのが仕事」となったのは近年のことだった。
理由は分業化の意識が進んだためだろう。つまり、出版社の幹部は、経営に頭を使う。現場の編集者は、原稿を読んで仕上がりに気を配る。作家は、ひたすら書く――もっとも、これはある程度の規模を備えた出版社の話で、中小の出版社では、草創期とあまり事情は変わらなかったのではないか。
そして、電子出版などで手軽に本をつくることができるようになった現在、出版史は新たな草創期を迎えつつあり、編集者の役割もまた変遷しつつある。変わらないのは、常に時代と向き合うという姿勢だ。これは編集者という仕事のしんどさと同時に快楽の源泉でもあるだろう。
実は、この本の編者・寺田博さんは、僕が小説家としてデビューしたとき、お世話になった編集者である。編者として、自分を数のうちに入れることはできない、という理由で、彼は101人のうちに入っていない。
だが、寺田さんも「時代を創った編集者」だとおもう。ここから先は、僕がこの本の執筆者のひとりとして、彼の項目を加えるつもりで書きたい。
僕が福武書店(現・ベネッセ)主催『海燕』新人文学賞をもらったのは1987年のことだ。受賞者は、もうひとりいて、よしもとばななだった。寺田さんは『海燕』の編集長をしていた。
新人文学賞の授賞式は、ホテル・ニューオータニで行われた。終了後、彼のはからいだったとおもうのだが、僕は寺田さんと同じタクシーで二次会の酒場へ向かった。彼は車を降りて2人で歩きながら、生意気な僕を手厳しくたしなめた。ここから僕は寺田学校の生徒になった。
受賞第一作は、なかなか掲載にならなかった。いくつも拙い作品を書き、ついにおもいあまって300枚を超える長篇を持って行った。担当編集者は、長い原稿を見て呆然としていた。
僕は寺田さんに窮状を訴える手紙を書いた。すぐに返事が来た。授賞式の二次会で入った酒場で会った。あの夜から2年半が経っていた。
彼は、僕ら(編集者)の仕事は、作家や作品によってやり方を変えると前置きし、300枚の小説を読んで、主要人物のレズビアンの女性が思いを寄せる相手とチークダンスする場面を、非常にいいとおもったと褒めた。そして、この女性を主人公にしよう、と助言した。
ほかにも、「小説にはカタルシスが必要だ」「(いい小説は)素直で端正な文章で、ユーモアと抒情を兼ね備え、随所にきらりと光る一行がある」「普通の小説で時代の主張ができれば一番いい」「方法は主題を補強しなければならない」「いまは、いかにもブンガク、ブンガクした小説はいただけない」(寺田さんも常に時代を意識していた)、「批評家がなんだ、この1行が書けるかという思いを持つこと」など具体的な話があった。
また、「作家は尊敬の対象ではなく、愛すべきもの」「僕は57歳になったけど、いまでもばんばん新人の原稿を読んでます」ともいった。
納得できることもあったし、頷けないこともあった。ただ、話を聴いているうちに興味が湧いてきた。それは、もしかすると、この人は、僕自身も気づいていない僕の可能性を見つけていて、それを引き出そうとしているのかも知れないというものだった。
僕は変わりたいとおもっていた。この人は、その望みを叶えてくれるかも知れないとおもった。
その後も、語り手を男性にすること、その職業など、細部にわたって提案があり、3回ほど原稿を直したとおもう。作品の長さは、半分ほどになった。僕は確かな手応えを感じていた。
完成のときは、九段下にあった福武書店の応接室で、寺田さんは僕が手を入れた原稿を読んで、「できたね」といった。僕はおもわず頭を下げた。彼はきびしい顔つきで、「最初から、ここまで考えていれば、こんなに時間はかからなかった」といった。
小説は『ドライヴしない?』という表題で『海燕』に掲載されて、その年の芥川賞の候補になった。候補に決まった日、寺田さんは、早く情報を取るようにしている、と電話で知らせてくれた。
処女創作集が発刊されると、あの酒場で祝ってくれた。その後も、求めると原稿を読んでくれた。続けて芥川賞の候補になっていたとき、「やがて文学史に残る作家になられると思います。精進を」と葉書をくれた。現役を退いたあと、文壇のパーティーで会ったとき、「ちゃんと生活できてる?」と言葉をかけてくれた。それが最後の出会いになった。
文芸編集者には、大別して、コーチ・タイプとセクレタリー・タイプがある。寺田さんは典型的なコーチ・タイプだった。コーチは選手への深い愛情を持っている。いまそういう編集者は少ないのではないか。
寺田さんが銀座のバーへ行くと、鞄から1枚の葉書を取り出して見せるという逸話があった。三島由紀夫からの私信で、寺田博はすぐれた編集者だと書いてある。テーブルについたのが若いホステスだと、別の葉書を取り出す。よしもとばななの私信で、これも彼を褒めている。そういう稚気も含めて、寺田さんは名編集者だったとおもう。彼のもとからは、多くの新人作家が世に出ている。
お勧めの本:
『時代を創った編集者101』(寺田博・編/新書館)