近代人の典型的な生き方は、学校で学んで、会社で働くことだ。しかし、近年になって学び方と働き方には選択肢が増えてきた。その気になれば、学校や会社という組織に属さないで、学び、働くこともできる。エリック・ホッファーは、そういう生き方の先駆的な存在だったのかもしれない。
『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』(以下、『自伝』)は、近代人とは異なったホッファーの半生を描いている。ただし、すべての生涯を覆うものではない。たどられるのは生まれてから39歳になるまでだ。ここまででも、極めてドラマティックである。
ホッファーは、1902年にニューヨークで生まれた。幼いころ母が彼を抱いて階段から転落。それがもとで母は亡くなり、彼は失明する。しばらくは記憶もなく、父は彼の知能が低いと思い込んでいた。15歳のとき、突然、視力が回復。またいつか盲目になると考えて、3年のあいだ読書に没頭した。
やがて父も亡くなる。家族を失って独りになった彼は、生活のためにカリフォルニアへ渡った。市立図書館のそばに安いアパートを借り、やはり読書に耽った。手持ちの金がなくなると、さまざまな職を転々とする。味気ない仕事を続けるのが嫌になって自死を試みたが、結局、生きることを選び取り、放浪者になった。
32歳のとき、季節労働者のキャンプに滞在し、ここでの生活が思索者・ホッファーの原体験となった。彼はキャンプにいる人々の大半が「社会的不適応者(ミスフィット)」であることを発見する。
「社会的不適応者」とは、社会の最底辺でうごめく、生きるだけで精一杯の存在だ。ホッファーはみずからもその範疇に属する彼らを観察し、不適応者こそは、いまとは異なる新しい世界を拓くための、別の選択肢であるという確信を得る。
彼は独学で学び続け、大学の研究所に誘われるほどの能力を身につけるが、放浪生活をやめない。出会う人々は、それぞれ独自な性格を持つ。若い女性と恋もする。1941年の真珠湾攻撃のとき、国のために役立ちたいと赴いたサンフランシスコで湾岸労働者となった。ホッファーは、やがて40歳を迎えようとしていた。
『波止場日記 労働と思索』(以下、『日記』)は、ホッファーが思索者兼湾岸労働者として暮らしたころの日記だ。彼は40歳から65歳まで湾岸労働者だった。これは1958年から59年にかけての1年間の記録だが、『自伝』以降の生活が窺える。
眼についた箇所を。
十二月六日(注・1958年)
第三十七埠頭、グレースライン船、八時間半(注・八時間半の港湾労働をしたということ)。ペルーからの鮭のかん詰の荷降し。忙しい一日だったが、きつくはなかった。終日、鉛筆には触れなかった。
今年はもう働くのをやめてもいいのだが、何となくそうしたくない。もう一週間、十五日まで働いて、あとは気楽にやるつもりである。
一月三十日(注・1959年)
トルシュタイン号にて八時間。ここの仕事終わる。
戻ると、『ニューヨーク・タイムズ』から兄弟愛についての論文の原稿料として三百ドルの小切手が届いていた。
二月二日
たびたび感銘を受けるのだが、すぐれた人々、性格がやさしく内面的な優雅さをもった人々が、波止場にたくさんいる。(中略)
じっと見ていると、彼らは賢明なばかりでなく驚くほど独創的なやり方で仕事にとりくんでいた。しかも、いつもまるで遊んでいるように仕事をするのである。
二月二十一日
今朝思ったのだが、私がくつろげるのは波止場にいるときだけだ。私はこれまでどこに行ってもアウトサイダーだと感じていた。波止場では強い帰属感をもつ。もちろん、ここに根がおりるほど長くとどまっているのも一つの理由である。しかし、ここでは一日目からくつろいでいたように思う。
二月二十六日
休みのときはほとんど何も書く気がしない。休息するだけなのである。十分すぎるほど長く休めば最後には書く気になるかもしれない。しかし、これまではすべて仕事から仕事へ駆け回っているあいだに著作をしてきた。
三月二十日
午後六時三十分。五時間半かかってバンガイ号を完了。部屋に戻ると眠くてたまらないので寝てしまった。一眠りし、風呂にも入り、今テーブルに向かって過去数日間浮かんできそうになっていた考えの筋をとり出したくてうずうずしている。
四月十日
本部へ行ったが派遣されなかった。昼寝をして、それから図書館へ行くことにしよう。
五月八日
第四十一埠頭、W・L・ルンド号、七時間。昨夜はほとんど眠らなかった。夜半すぎまでハミルトンの本を読んでいて、そのあと眠れなかった。さいわいなことに今日の仕事は楽だった。現在(六時半)、やっとのことで目を開けている状態。
ホッファーは、湾岸労働者として働きながら思索を深め、1951年には初の著作『大衆運動』を出版し、バートランド・ラッセルなどから高い評価を受ける。その後も精力的に著述を続け、十数冊の著作をしるした。大学で教えてもいる。
しかし、『日記』で分かるように彼は安楽な知識人としての生活を拒み、湾岸労働者としての生活を手放さない。ここがホッファーの思想家としての肝といえる。
ホッファーは、知=言葉を持っている。しかし、彼は知=言葉の側にはいない。彼がいる場所は、不適応者の側だ。不適応者を、原・人間とでもいってみようか。彼の言葉は不適応者=原・人間の生活の最深部にある、生の根源ともいえる何かをくぐり抜けて、手応えと重みを獲得している。
ホッファーの言葉に観念の上滑りはない。彼の観念からは血が流れる。彼が紡ぎ出すのは、根源の生活に根差した思想・哲学なのだ。多分、だからホッファーの言葉にはアカデミズムには回収しきれない何かが孕まれている。それが彼の魅力でもある。
『安息日の前に』は、湾岸労働者を引退したあとの暮らしをしるした日記だ。1974年から翌年にかけての7ヵ月の記録だが、ホッファーの晩年を窺うことができる。彼は70歳を超えて、自分はまだ思索者として価値のある生き方ができるのかをみずからに問い、この日記を「砂金採りの洗鉱桶」になぞらえ、「洞察の断片」を掬い上げようとする。
老境に入ってなお、知性を冴えわたらせて、社会を見据え、人間に眼を凝らし、歴史に思いを馳せ、国際情勢や政治を論じる彼の取り組みは、読む者に強い感銘を与える。この一節。
1月26日(注・1975年)
退屈や不振に陥ってはならない。考え、学び、書きつづけなければならない。許されるのはテンポを緩めることだけだ。
あるいは、72歳のときのインタビューに応えた言葉。
有意義な人生とは学習する人生のことです。
最後に『自伝』の印象的な逸話を紹介しよう。放浪生活を続けていたときのことだ。貨物列車の屋根の上で思想の難問を考えていた。無意識にある小辞典に手が伸びた。これは彼の思索のお守りのようなもので、どのような疑問にも答えてくれるような気がしていた。
しかし、彼は不意に、この辞典を風の中に放り投げた。
どんな問題であれ、つねに答えを知っている人間がそばにいたら、自分自身で深く考えることをやめてしまうだろう。そうすれば、私はもはや本来の思索者ではない。
ホッファーにとって、生きるとは思索することだった。また、彼の生涯は、人には多様な生の形式があることを教えてくれる。エリック・ホッファーという生き方は味わい深い。
お勧めの本:
『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』(エリック・ホッファー/中本義彦訳/作品社)
『波止場日記 労働と思索』(エリック・ホッファー/田中淳訳/みすず書房)
『安息日の前に』(エリック・ホッファー/中本義彦訳/作品社)