宗教家ゆえに黙殺されてきた功績
行き詰まったら原点に帰れ、である。
2015年1月から7月までの訪日外国人は、はやくも1100万人を超えた。中国人が最も多く275万人余で、前年の同じ時期より2倍以上に増えている。
日中関係は観光や経済を中心にかつてないほど深まっている。一方でこの数年、政治的な次元では幾度も「国交正常化以来最悪」という形容詞で語られる危機が続いてきた。
第二次世界大戦が終わったあとも、日本と中国の間には国交も平和条約も存在せず、法的には〝戦争状態〟が継続していた。1949年に共産党が中華人民共和国を樹立し、内戦に敗れた国民党が台湾に移ると、米国はじめ国際社会は台湾政府を「中華民国」として承認した。米国施政権下にあった当時の沖縄には、北京を射程に入れた核ミサイルが配備されていた。
しかし、1972年2月、米国のニクソン大統領が電撃的に北京を訪問。米中が握手をしたことで流れが変わる。それまで米国に追随して北京政府を敵視していた日本も、あわてて国交正常化を模索。遅れること半年、9月に田中角栄首相が訪中し、日中国交正常化を果たすことができた。
中国には「飲水思源」――水を飲むときには井戸を掘った人のことを思え――という言葉がある。この「原点」としての日中国交正常化という井戸は、いかなる人々の努力によって掘られたのか。
あの時代、日中が国交正常化にこぎつけることができたのは、日本では、通産大臣や初代経済企画庁長官などを歴任した高碕達之助、厚生、農林、文部の各大臣を歴任した松村謙三、首相を務めた田中角栄と大平正芳、創価学会会長(現名誉会長)の池田大作、中国側では、最高指導者(中国共産党主席)の毛沢東、日本留学の経験をもつ首相の周恩来、早稲田大学で学んだ政治家の廖承志、中日友好協会会長を務めた孫平化ら、日中双方の政治家や各界指導者たち、そしてさまざまな民間人や諸団体の忍耐強い努力があったからにほかならない。(『扉はふたたび開かれる 検証日中友好と創価学会』時事通信社)
このうち、とくに創価学会の池田会長の果たした役割について、会長が宗教家であったがゆえに、これまで日本の政治・外交史の文脈で「適切に評価されてきたとは言い難い」とし、そこを「事実に基づいて検証」しようとしたのが本書である。
「民の力をもって官を促す」
1960年代の日本には、日中友好を口にするだけでも身辺に危機が迫る空気があった。実際、社会党の浅沼委員長が右翼に刺殺される事件も起きている。
そのなかで1968年9月、池田会長は1万数千人の学生が集った第11回創価学会学生部総会の席上、日中国交正常化提言をおこなった。事前に演説内容を入手していた朝日新聞は、同日朝刊1面でこれを報道。読売新聞は翌日2面に4段記事で報じた。
中国でもこの提言はただちに報じられ、周恩来ら国家首脳に届けられた。松村謙三は池田会長に即座に訪中を要請したが、会長は「自分は宗教者であり国交正常化は政治次元でなければならない。私が創立した公明党にお願いしたい」と応じた。
ニクソンの電撃訪中のあと、72年7月に発足したばかりの田中角栄内閣が9月末に国交正常化までこぎつけられたのは、周恩来が公明党を信頼し、交渉役に指名して日中間のやりとりができたからである。
正常化から2年後の1974年12月、訪中していた池田会長を周恩来首相が迎えた。周恩来は逝去の1年前であり、膀胱がんの手術をしたあとで衰弱も進み、医師団の管理下におかれていた。
周首相の会見は予定されておらず、鄧小平副首相が池田会長と会見したばかりだった。会長が帰国する前夜、医師団の反対を押し切った周恩来の強い希望で、入院先の病院での会見となった。
周恩来には〝井戸を掘った人〟の信義にこたえたいという思いと同時に、思うように進展しない日中平和友好条約の早期締結に会長の尽力を求め、20世紀の最後の25年間の両国関係を「民の力」に託したいという願望があったのだ。
作家の石川好氏は本書への寄稿のなかで、1954年に新中国が紅十字の代表を団長とする初の訪日団を送るに際し、周恩来が「民の力をもって官を促す」と激励したことを挙げている。
本書では、時事通信社の田崎史郎解説委員、信太謙三元東洋大学教授らによる、原田稔・創価学会会長へのロングインタビューも収録されている。
正確な史実や秘められたエピソードをひもときながら、日中友好と相互理解の道をさらに堅固にしていくための方途を考える充実した1冊である。
『扉はふたたび開かれる 検証日中友好と創価学会』
信太謙三/監修・編著者、時事通信出版局/編者価格 1600円+税/時事通信社/2015年4月28日発刊
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