道徳の教科化へ・パブリックコメントの実施
安倍政権の道徳の教科化へ向けた動きが加速化している。今年(2015年)2月4日に文科省は道徳の教科化についての改正案を提示し、3月5日までの期間でパブリックコメント(意見公募手続・意見提出制度)を実施した。
パブリックコメントとは、新しい政令や省令を決める際にその案を前もって公表して広く国民からの意見を求め、集められた意見を考慮して最終的な決定をする制度で、選挙以外で国民が政治に直接関わることができる重要なものだ。
日本では1999年の閣議決定を契機に始まった。比較的新しい制度であり課題も多いが、2014年に生活保護法が改正された際にはこの制度によって多くの意見が寄せられ、案が修正されるということもあった。
道徳教育をどのように扱うかは、国とって大変に重要な問題である。道徳教育がどのように変わろうとしているのか、何が問題なのか、今こそ考えるべき時であることを痛感する。
「人権」の欠落
さて、今回のパブリックコメントで発表された資料を読んでいくと、あることに気が付く。それは、今回提示された「先生の教科書」とも言える学習指導要領の案の中で、「人権」という言葉が1度も出てこないことだ(「権利」という言葉は1度だけ出てくる)。これは、道徳教育の案として奇異に映る。道徳を考える上で人権は大変に重要な考え・概念である。
それは、人権が道徳に「説明」を与え得る概念だからだ。例えば、「耳障りな意見を黙らせることが悪いのはなぜか」と問われたら、「それは、どんな人にも意見を表明する『権利』があるからだ」というように、人が本来持っている権利に訴えて説明することができる。
また、日本国憲法の3原則の1つも「基本的人権の尊重」であり、そもそも「人権とは何か」を学ぶことは日本人として必須だろう。昨今は憲法改正が取りざたされているが、今の憲法で保証されている人権・権利についての理解なくして議論を進めることはできない。
世界に目を向けてみても、人権・権利教育が道徳教育の中で重要な位置を占めていることが多い。イングランドでは日本の道徳にあたるものとして「シチズンシップ(citizenship、市民教育)」という科目があるが、この科目では市民の社会における責任と共に権利についても中心的に学習する。この科目に関する政府の説明文にもその冒頭から「権利」という言葉が目に飛び込んでくる。
世界の人権教育の流れと日本の現状
日本において人権教育が全く見過ごされてきたわけではない。人権教育の推進は、主に国連の活動と歩調を合わせる形で進められてきた。国連は1995年から2004年までを「人権教育のための国連10年」として世界各地で人権教育の普及に取り組んできた。
2011年には「人権教育及び研修に関する国連宣言」が発表され、全ての人が人権教育・人権研修を利用する権利を持つこと、そして、国や公共団体がそのための整備をする義務を負うべきことが確認された。
この流れに沿う形で、日本でも2000年に「人権教育及び人権啓発の推進に関する法律」が成立し、2002年には、「人権教育・啓発に関する基本計画」が閣議決定され、学校教育において人権教育を推進していくことが決まった。
だが、実際には人権教育はそれほど活発に進んでいない。人権教育の計画策定すらできていない自治体もあるとの調査結果もある。これは憂慮すべきことである。
例えば「子どもは虐待を受けない権利を持っている」ということは誰もが認めることだろうが、実際に虐待を行っている家庭でこれを子どもに教えているとは非常に考えにくい。保護者や親自身がこのことを知らないかもしれないし、こうした権利があることを知らない子どもは、「虐待されるのは自分が悪いからだ」と思い、じっと耐えているかもしれない。
日本の未来を支える子どもたちが、権利について無知である故に大変な苦しみを味わっている可能性を考えると、権利教育の充実が遅れていることは大変に重い問題であることがわかる。
2002年の閣議決定では、人権教育は道徳の時間でも教えられるべきものだとされている。世界から遅れをとっている我が国の権利教育を充実させるためにも、本格的に道徳教育に人権教育を取り入れることを考えるべきではないか。
人権教育が子どもたちをわがままにする?
学校で人権教育を強化することに反対する論調もある。例えば、「子どもの権利ばかり主張すると子ども言うことを聞かなくなる」「子どもがわがままになる」というものから、「聞き分けのよい子を育てるために、人権教育は控えるべきだ」という極端な主張もある。
まず、「人権教育は子どもをわがままにする」という主張は、人権教育の本質を見誤っている。それは、人権を学ぶことは、自分が持つ権利を学ぶと共に、他者がどのような権利を持っているのかも学ぶことにつながるからだ。「誰もが自分の主張を表明することができる」という権利を十分に理解するということは、自分の意見を大事にできると共に、自分と異なる意見にも耳を傾けることである。このような知識が子どもの間で共有されれば、自然と皆が他人の意見にも耳を傾けられるようになり、わがままとは真逆の人格が養成されるだろう。
「聞き分けのよい生徒を育成する」という主張にはそもそも根本的な問題がある。単に人から言われたことに従うことしかできない子どもは、自分の権利が抑圧されている場合でも「ノー」と言うことができないことも考えられる。例えば、道徳教科化の目的の1つでもある「いじめ問題」の解決のためにも、自らの権利を自覚し、それが侵害されている時は勇気を持って拒絶することができる子どもを育てるべきであろう。
権利の自覚がいじめの問題にも有効であることを示す例がある。NPO法人「CAPセンター・JAPAN」の活動だ。この団体は、「安心」「自身」「自由」を誰もが持っている最も大切な権利として、自治体の委託を受けて学校などで生徒や教員、保護者を対象に権利教育のプログラムを行っている。子ども自身が自らの権利を学び、自覚することで、「受けている虐待が発覚した」「いじめをとめることができた」などの様々な効果をあげている。今後、道徳教育を考えていく上で、参考にしてもらいたい有効な取り組みだ。
昨年(2014年)7月にジュネーブで国連の自由権規約委員会の日本審査が開かれ、「代用監獄制度」や「ヘイトスピーチ」、「女性差別」などが指摘され、さらに日本政府が以前から指摘されていたこれらの人権問題に対して積極的な行動をとっていないことに強い懸念が示された。こうした背景から、「日本は人権後進国である」と言われることもある。
道徳の教科化へ向けての動きはこうした汚名をそそぐ大切な機会でもある。道徳教育についての議論が高まる今こそ道徳と人権の関係を見直し、人権教育に本格的に取り組んでいく動きが行政レベルでも民間レベルでも進んでいくことを期待したい。
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