第82回 正修止観章㊷
[3]「2. 広く解す」㊵
(9)十乗観法を明かす㉙
⑥破法遍(10)
(4)従空入仮の破法遍②
十乗観法の第四「破法遍」のなかの従空入仮の破法遍の説明を続ける。この段は、入仮の意、入仮の因縁、入仮の観、入仮の位の四段に分かれるが、今回は、第三の入仮の観が、病を知る、薬を知る、薬を授けるという三段に分かれるなかの薬を知る段落から説明をする。
③入仮の観(2)
(b)薬を識る
冒頭に、病の様相が無量であるので、薬も無量であると述べ、この薬を世間の法薬、出世間の法薬、出世間上上の法薬に三分類している。出仮(入仮)の菩薩は、この三種の薬を明確に知って、衆生を救済しなければならないとされる。
まず、世間の法薬については、
『大経』に云わく、「一切世間の外道の経書は、皆な是れ仏説にして、外道の説に非ず」と。『金光明』に云わく、「一切世間の所有(あらゆ)る善論は、皆な此の経に因(よ)る」と。若し深く世法を識らば、即ち是れ仏法なり。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、77上29~中2)
と述べている。『涅槃経』の引用は、「すべての世間の外道の経書は、すべて仏説であり、外道の説ではない」という意味である(※1)。『金光明経』の引用は、「すべての世間のあらゆる善論は、すべてこの経に基づく」という意味である(※2)。そして、もし深く世間の法を知るならば、仏法にほかならないと結論づけている。世法即仏法という有名な理念を示したものである。
さらに、仁・義・礼・智・信の五常、木・火・土・金・水の五行、五経(※3)と仏教の世間の戒である不殺生(ふせっしょう)・不偸盗(ふちゅうとう)・不邪婬(ふじゃいん)・不妄語(ふもうご)・不飲酒(ふおんじゅ)の五戒との関係を説いているが、説明は省略する(※4)。
次に、出世間の法薬については、信、楽欲(ぎょうよく)、不放逸(ふほういつ)、精進、身念処、正定、無常を修行すること、阿蘭若処(あらんにゃしょ)(修行に適した閑静な場所)、他のために法を説くこと、持戒、善友に近づくように説くこと、慈を身につけると説くことがそれぞれ道といわれているが、これが出世間の法薬に相当する。
また、数を一つずつ増して道(法薬)の中身を規定している。一から十までを順に取りあげると、一行三昧、定・智(慧)、戒・定・慧、四念処(身の不浄、受の苦、心の無常、法の無我を観察すること)、五力(信力・精進力・念力・定力・慧力)、六念(念仏・念法・念僧・念戒・念施・念天)、七覚(択法・精進・喜・軽安・捨・定・念)、八正道(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)、九想(身体の醜悪な九種の相を観じて、身体に対する執著を離れる不浄観。脹想・青瘀想・壊想・血塗漫想・膿爛想・噉想・散想・骨想・焼想)、十智(世智・等智・比智・苦智・集智・滅智・道智・他心智・尽智・無生智)となる。今、十まで数えたが、さらに八万四千に至り、数えることができないほど多くあるといわれる。出仮の菩薩は、これらをすべて知らなければならないとされる。もし知らなければ、衆生に利益を与えることができないのである。
最後に、出世間上上の法薬については、やはり数を一つずつ増して法薬の中身を規定している。一止観の一法に焦点をあわせる場合は一実諦のことである。二法を薬とする場合は、止と観である。三法を薬とする場合は、止と観と随道戒のことである。また三三昧(空三昧・無相三昧・無作三昧)のことである。四法を薬とする場合は、四念処のことである。五法を薬とする場合は、五根である。六法を薬とする場合は、六念のことである。七法を薬とする場合は、七覚のことである。八法を薬とする場合は、八正道のことである。九法を薬とする場合は、九想のことである。十法を薬とする場合は、十智のことである。このように増やして十とすることができる以上、同様に恒河沙の仏法に拡大することができると述べられている。
この段の末尾に、入仮の正意について、
仏は初めて世に出ずるに、衆生の機は熟す。根に逗(ず)して法を説くに、悟ることを得ざるもの無し。後代、澆漓(ぎょうり)にして、情惑は転(うた)た異なり。直ちに仏経を用うれば、其れに於いて益無し。菩薩は機を観じて、経を通じ論を作して、衆生をして悟りを得しめ、唯だ彼を悟り益す。是れ入仮の正意なり。豈に旧を守って化道を壅(ふさ)ぐ可けんや。(同前、78中21~25)
と述べている。仏が最初に世に出現したとき、衆生の機は成熟しており、衆生の能力に投合して法を説くのに、悟ることができないものはいなかった。後代、人情が薄く、迷いがいっそう多様になっていったので、ただちに仏の経を用いれば、衆生にとって利益はなくなる。菩薩は機を観察して、経を解釈し論を作って、衆生に悟ることができるようにさせ、ただ衆生を悟らせ利益を与えるだけである。これが入仮の正しい意味である。どうして旧を守って化導を塞ぐことができようかという内容である。
(注釈)
※1 『南本涅槃経』巻第八、文字品、「所有(あらゆ)る種種の異論、呪術、言語、文字は皆な是れ仏説にして、外道の説に非ず」(大正12、653下17~18)を参照。
※2 『金光明経』巻第二、四天王品、「閻浮提の一切衆生、及び諸の人王の世間・出世間の作す所の国事、造る所の世論の若(ごと)きは、皆な此の経に因る。衆生をして安楽を得しめんと欲するが故に、釈迦如来は是の経を示現して、広宣流布す」(大正16、344上9~12)を参照。
※3 『詩』、『書』、『礼』、『易』、『春秋』、『楽』を六経というが、『楽』は早く失われたので、前の五つを一般に五経という。ただし、『摩訶止観』の本文では、『春秋』の代わりに『楽』を入れたものを五経と呼んでいる。
※4 五常と五戒の関係については、「仁慈(にんじ)矜養(ごんよう)して、他を害せざるは、即ち不殺戒なり。義譲(ぎじょう)推廉(すいれん)して、己れを抽(ひ)いて彼に恵むは、是れ不盗戒なり。礼制規矩、髪を結い親を成すは、即ち不邪婬戒なり。智鑑明利、所為秉直(へいじき)にして、道理に中当するは、即ち不飲酒戒なり。信契実録にして、誠節欺かざるは、是れ不妄語戒なり」(大正46、77中4~8)とある。
(連載)『摩訶止観』入門:
シリーズ一覧 第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 第9回 第10回 第11回 第12回 第13回 第14回 第15回 第16回 第17回 第18回 第19回 第20回 第21回 第22回 第23回 第24回 第25回 第26回 第27回 第28回 第29回 第30回 第31回 第32回 第33回 第34回 第35回 第36回 第37回 第38回 第39回 第40回 第41回 第42回 第43回 第44回 第45回 第46回 第47回 第48回 第49回 第50回 第51回 第52回 第53回 第54回 第55回 第56回 第57回 第58回 第59回 第60回 第61回 第62回 第63回 第64回 第65回 第66回 第67回 第68回 第69回 第70回 第71回 第72回 第73回 第74回 第75回 第76回 第77回 第78回 第79回 第80回 第81回 第82回 第83回(5月2日掲載予定)
菅野博史氏による「天台三大部」個人訳、発売中!