――「政治と宗教」への人々の懐疑や批判的な声が続いています。そのうえで前回は、むしろこれをコミュニケーションのチャンスと捉えるべきだという話が出ました。
青山樹人 これは、とても大事な視点だと思います。むろん、誰でも自分が一番大切にしているものを土足で踏みにじられれば、黙っていられませんよね。その心情は当然でしょう。
また、幾百万人の信仰に関わる悪意のデマに対しては、やはり黙していてはいけない。
池田先生は『新・人間革命』で、日蓮大聖人が常に電光石火の言論戦に徹していた姿に触れ、
黙っていれば、噓の闇が広がる。その邪悪を破る光こそ、正義の言論である。(第8巻「清流」の章)
「一」 の暴言、中傷を聞いたならば、「十」の正論を語り抜く。(同)
と綴られています。
まして現代はSNSの時代です。誤情報や悪意のデマが瞬時に広がる。だからこそ「電光石火」のスピードで、真実の情報を繰り返し発信していく必要があります。
一方で、池田先生は一貫して、あらゆる困難を〝チャンスに変える〟点でも、稀有の指導者であったと思います。学会が大きな難を受けるたびに、先生は常にそれを好機に変え、悠然と新しい広布の舞台を開いてこられました。
1969年の暮れから巻き起こった「言論問題」では、これを機に〝量的拡大から質的拡大〟への方向転換を鮮明にします。組織の近代化を図り、言わば急上昇してきた創価学会を安定飛行の軌道に乗せました。
1970年には、学会は750万世帯を達成。1971年には創価大学が開学し、1972年からはトインビー博士との2年越しの対談を開始します。
1973年には、日本映画界の最高峰の陣容で制作された映画『人間革命』が封切られました。学術的な見地に立った『私の釈尊観』を日本語とフランス語で出版したのもこの年です。
この1973年の元日、学会本部での勤行会で挨拶に立った先生は、
「広布第二章」とは、生命の尊厳や慈悲など、仏法の哲理を根底とした社会建設の時代です。
言い換えれば、創価学会に脈打つ仏法の叡智を社会に開き、人類の共有財産としていく時代の到来ともいえます。
そのためには、原点に立ち返って、社会を建設し、文化を創造していく源泉である、仏法という理念を、徹底して掘り下げ、再構築していかなくてはならない。(『新・人間革命』第17巻)
と述べています。
ある意味で、今日の学会の世界宗教化の出発点となった「宣言」でもあったように私は感じています。
――既に50年以上前、池田先生は「学会を人類の共有財産に」と語っていたのですね。単なる布教拡大ではない。先生のなかには、創価学会が人類社会で果たすべき役割が、明確に思い描かれていたのだと思います。
青山 第一次宗門事件の暴風雨のなかで、第3代会長を辞任した先生は、今度はSGI会長として、今まで以上に世界での指揮をとっていくと決意されます。
こうして歩み出した1980年代には、「SGI提言」に象徴される国連支援、核廃絶への国際世論の喚起、平和運動としての文化祭など、会員の視野を大きく社会へ、世界へと開かせ、世界市民の連帯としてのSGIを大きく築いていかれました。
この80年代、先生は「敦煌」「宇宙」といった壮大なテーマで次々に識者との対話を続けられています。
当時は、阿部日顕が日蓮正宗の法主となり、宗門は江戸時代さながらの権威主義に舵を切っていました。
先生は、会員が権威ぶった宗門に誑(たぶら)かされないよう、広々とした視野と精神性を育んでくださったのではないでしょうか。
さらに90年代に入ると、いよいよ日顕が本性を現して創価学会の破壊を企てました。他方で政治家とマスコミと宗教界が三つ巴になって、謀略とデマ攻撃のかぎりを尽くしてきます。
この時期も、先生は単にそれらの人権侵害と戦うだけでなく、ローザ・パークス氏やネルソン・マンデラ氏、サイモン・ウィーゼンタールセンターの首脳らとの友情を深め、これら歴史的な人権の闘士たちから学び、創価学会を「人権の砦」として鍛えていかれました。
また、自らこれまで以上に世界の知性との対話や、世界の諸大学等での講演を重ね、世界の第一級の知性たちに、創価学会の哲学と行動への理解を大きく促していかれます。
――なるほど。池田先生は、学会が圧迫を受け、無理解の批判や悪質なデマにさらされたときほど、一貫して社会とのコミュニケーションを深めることに尽力し、学会員の精神性を飛躍的に高める好機に変えてきたわけですね。
青山 世間が「もうこれで学会も終わるだろう」と考えるほどの大きな試練があるたびに、先生はその逆風を新しい飛翔の力に変えてこられました。これが私たちの師匠なのです。
私たちは「仏法とは無限の希望である」との先生の信条信念を胸に、今こそ、誰も想像しなかった、広宣流布のまったく新しい舞台を切り開いていくべきではないかと思います。
――前回、「政治と宗教への人々の批判的な声の多くは、裏を返せば無党派層や宗教への関心が乏しい人々の素朴な声でもある」(西田亮介・日本大学危機管理学部教授)という指摘に触れていただきました。
青山 この〝人々の素朴な声〟だという認識が大切だと思います。SNSなどでは、ごく少数の声がものすごく増幅されて大きく見えます。
ただ多くの場合、批判や中傷の裏には、何かとてつもない悪意があるというよりも、政治や宗教に関心が乏しい人々の〝素朴な心象風景〟として、漠然とした不安感があるのでしょう。
各国とのさまざまな比較調査でも明らかなのですが、日本では「政治」と「宗教」への信頼度がきわめて低いことが知られています。その2つが掛け合わされば、なおのこと信頼度が低くなるのは無理もありません。
2023年2月に築地本願寺(東京)が全国の18歳から70代、約1600人を対象に実施した「宗教や仏教に関する意識調査」では、「ここ最近で『宗教』への不信感が高まった」という人が全体の約4割。とくに10~40代女性の5割が「宗教への不信感が高まった」と回答しています。
これは、前年7月の安倍元首相銃撃事件をきっかけに、旧統一教会の問題がメディアや国会で大きく取り上げられたことに起因しているのだと思います。
この調査では、「『宗教』からイメージすること」という設問に対し、もっとも多かった回答は「心の拠り所/信仰」でしたが、次いで「マインドコントロール」「胡散臭い」「怖い」「お金」など、ネガティブな切り口での要素が多かったことも指摘されています。
これらが、まさに〝素朴な声〟なのです。こうした宗教へのまなざしに対して、上から見下ろしてバカにするような態度をとったり、むやみに感情的な反論をしたりすることは、あまり賢明ではないと思います。
むしろ、日常の顔と顔を合わせた「1対1」の関係性のなかで、身近な友人知人と積極的に語り合い、率直な声に耳を傾けていきたい。
その際も、反論や説得が先に立つような会話ではなく、相手の〝素朴な声〟をひとたびは受け止めて共有し、「では、本来あるべき宗教や信仰の姿とはどのようなものか?」を、一緒に考えていく姿勢が大事だと思うのです。
これは、たとえば家庭内などで子どもと語り合ううえでも必要かもしれませんね。小さい頃から信心しているから、わかっているだろうと決めつけず、折を見てこうしたテーマを語り合っていくことです。
その場合も、一方的に大人の価値観を押し付けるのではなく、子ども自身に時間をかけて考えてもらうことが大事だと思います。
――宗教団体というと、信者が妄信的に操られていく集団というイメージを抱いている人は少なくないでしょうね。
青山 とくに「新宗教」という括りで語られる教団に対して、このようなレッテルが貼られがちです。
日本社会では、旧来の仏教宗派や神社を「伝統宗教」と呼び、幕末以降に新しく誕生した宗教運動を「新宗教」と呼んで、一段低いものであるかのように扱っていますよね。ちなみに「新興宗教」という言葉は蔑称のニュアンスが強いので、今は使わないことが一般的になってきました。
じつは、こうした宗教へのまなざしは、大日本帝国が形成されていく時期、明治中期からのナショナリズムの形成と背中合わせの面があるのです。
――どういうことでしょうか?
青山 明治政府は、新政府の正統性や権威付けに神話や神道を利用し、「廃仏毀釈」で仏教界の影響力を一気に低下させる政策をとりました。
やがて警戒の対象としたのが、次々に台頭してきた新しい教派の宗教運動です。日本という「国民国家」のもとに人々を糾合していくうえで、国家とは別のところに絶対的な価値観や求心力を持つ集団が出てくるのは、統治する側にとっては都合が悪いからです。
大日本帝国憲法が施行(1890年)された2年後に創刊された日刊紙『萬朝報』(よろずちょうほう)は、蓮門教という新宗教を「淫祠(いんし)邪教」と呼んで非難する激烈な長期連載や、精神疾患者への中傷記事、有名人の女性スキャンダル報道で急速に部数を伸ばしていきます。
――まるで、今日の週刊誌と同じですね。
青山 日本人に「日本国民」という意識が植え付けられていく時期に、新宗教を信じる人々を露骨に蔑視し、社会から排斥する空気が作られていった。
大きく俯瞰して見た場合、スキャンダル報道やバッシング報道というのは、〝普通〟から外れているとして相手を叩く。こうして「あるべき国民像」を作り上げていくはたらきがあるのです。
こうした新宗教への蔑視は、じつは21世紀になってもメディアのなかに受け継がれています。一番わかりやすいのが、伝統宗教にくくられる神社や寺院の宗教行事は、何のためらいもなくニュース番組や記事などで取り上げられますよね。
しかし、幕末以降に誕生した教団の宗教行事は、テレビや新聞では扱わない。
メディアがどこまで自覚的にそのような〝自主規制〟をしているのか知りませんが、これらが暗黙のうちに、「新宗教は社会のメインストリームに存在してはならない」「新宗教に触れることはタブーである」という空気を、今も日本社会に作り出しているのです。
立ち込める線香の煙を浴びると無病息災になるとか、真冬に冷水を浴びるとか、火の上を歩くとか、まるで「ご利益があること」が自明のようにテレビでも報じられますね。もし同じことを「新宗教」がやれば、社会からバッシングされて大炎上するのではないでしょうか。
とんでもないダブルスタンダードなのですが、それがダブルスタンダードだということさえ、おそらく自覚されていないのです。
――先ほどの「マインドコントロール」「胡散臭い」等についてですが、宗教の〝正邪〟や〝高低浅深〟について、どのように議論していけばいいと考えますか。
青山 「宗教の正邪」というと、それ自体が独善的な響きを持つ印象があるので、私は友人と話す際、あえて「宗教の健全性」という言い方をしています。つまり、宗教の構造、あり方として、健全な宗教と不健全な宗教があるのではないか――と。
私は、人が誰かに依存しなければ幸福になれない信仰は、やはり危ういと考えています。
教祖であるとか、聖職者であるとか、〝特別な誰か〟にしかできないことを設定して、その人に依存しないと幸福になれないという宗教は、構造として不健全だと思うのです。
――葬儀で僧侶が読経して戒名を付けないと〝成仏〟できないとか、神職の祈祷を受けないと厄を祓えないとか、むしろ聖職者に依存することが多くの宗教では一般的かもしれません。
青山 「マインドコントロール」などという、定義のあやふやな言葉を平気で使っている政党や政治家もありましたね。それを言うなら、何の疑問もなくお布施を払って戒名を付けてもらうことも「マインドコントロール」の結果でしょう。
そもそも、死者に戒名を付けるなど、仏教の教えとは関係ない、江戸幕府のキリシタン排除のための政策なのですから。
創価学会には、その〝特別な誰か〟への依存がない。誰かに祈願してもらうとか、一般会員の知らない〝特別な秘儀〟などというものがありません。
仏道修行である「勤行・唱題」にせよ、教義の根本である「御書」にせよ、会長も会員も、それこそ新入会メンバーも、まったく同じです。
一般の宗教であれば、多くの場合、聖職者などに祈祷してもらうこともあるでしょうが、創価学会ではあり得ません。葬儀や法要などで儀典長や幹部の導師で勤行する際も、〝一緒に勤行する〟だけです。
葬儀や法要でお金を取ることもありません。
もちろん、先輩や地域の幹部に信仰上のアドバイスを求めることはあります。その場合も、あくまでアドバイスであって、どこまでも自分の信心で問題を解決していくのです。
特別な場所に参詣しなければ幸福になれないという思想も、創価学会にはありません。
――なるほど。たしかに創価学会には〝依存〟の入り込む余地がありませんね。むしろ、「自分の信心で勝ち越えよう」と励まします。
青山 創価学会は「会憲」で、牧口・戸田・池田の「三代会長」を、「広宣流布実現への死身弘法の体現者であり、この会の広宣流布の永遠の師匠である」と定めています。
これは、〝依存〟でも〝神格化〟でもありません。書いてあるとおり、三代の会長が身をもって示した「死身弘法」の生き方を、自分自身のあるべき規範にしていくということです。
日蓮仏法は〝おすがり信仰〟ではない。1人1人が「広宣流布」という仏の大願を分かち持っていく信仰です。仏と同じ大願に立ち、行動するから、仏の力用と功徳がわが生命に顕現してくるわけです。
創価の「三代会長」は、事実の上でそれを体現し、証明してくださった。1人の人間における「人間革命」が、社会を変え、国を変え、世界をも変え得ることを、身をもって示してくださった。
その生き方に、自分の意志で連なっていくのが創価学会の「師弟」でしょう。
――ただ、この「師匠を持つ」ということを、何か特定の人を絶対視し崇拝することのように受け止めてしまう人もいるようです。
青山 将棋の世界でも、芸事や音楽の世界でも、武道やスポーツでも「師匠」はいます。一流の人は、みんな「師匠」を持っています。
サッカー界のスーパースターとして今も愛され続ける、元イタリア代表のロベルト・バッジョさんが現役時代、月刊誌のインタビューで「あなたにとって池田先生はどのような存在か?」と尋ねられ、「先生は、私にとって模範です」と答えたことがあります。
このシンプルな言葉に、ある意味で創価学会の「師弟」の本質の一端が、よく表れているかもしれません。
誰かを神格化したり、絶対者のように崇めたりするのではないのです。むしろ正反対に、その人の人格や行動を〝模範〟として、自分もそのように生きていこうとする。
今、創価学会は海外で発展を続けています。たとえばインド創価学会は30万人の陣列となり、学会創立100周年の2030年に100万人をめざしています。
入会してくる人々は、もちろん池田先生に一度も会ったことなどありません。しかし、先生の著作や詩に触れて、「この人のように生きよう」と信仰を始め、深めているわけです。
――インド創価学会の合言葉は「アイ・アム・シンイチ・ヤマモト!」だそうですね。「山本伸一」というのは、小説『人間革命』『新・人間革命』に描かれた池田先生のことです。
青山 自分が21世紀の「山本伸一」として生きるのだということですね。先ほどのバッジョさんの言葉に通じ合うものがあります。
では、なぜ宗教が政治と関わるのか。宗教が政治に関わることは、そもそも問題があるのか。次回は、この話にしましょう。
連載「広布の未来図」を考える:
第1回 AIの発達と信仰
第2回 公権力と信仰の関係
第3回 宗教を判断する尺度
特集 世界はなぜ「池田大作」を評価するのか:
第1回 逝去と創価学会の今後
第2回 世界宗教の要件を整える
第3回 民主主義に果たした役割
第4回 「言葉の力」と開かれた精神
第5回 ヨーロッパ社会からの信頼
第6回 核廃絶へ世界世論の形成
第7回 「創価一貫教育」の実現
第8回 世界市民を育む美術館
第9回 音楽芸術への比類なき貢献
「池田大作」を知るための書籍・20タイトル:
20タイトル(上) まずは会長自身の著作から
20タイトル(下) 対談集・評伝・そのほか
三代会長が開いた世界宗教への道(全5回):
第1回 日蓮仏法の精神を受け継ぐ
第2回 嵐のなかで世界への対話を開始
第3回 第1次宗門事件の謀略
第4回 法主が主導した第2次宗門事件
第5回 世界宗教へと飛翔する創価学会
「フランスのセクト対策とは」:
フランスのセクト対策とは(上)――創価学会をめぐる「報告書」
フランスのセクト対策とは(中)――首相通達で廃止されたリスト
フランスのセクト対策とは(下)――ヨーロッパでの創価学会の評価
仏『ル・モンド』の月刊誌がフランスの創価学会のルポを掲載――その意義と背景
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公明党と「政教分離」――〝憲法違反〟と考えている人へ
「政治と宗教」危うい言説――立憲主義とは何か
「政教分離」の正しい理解なくしては、人権社会の成熟もない(弁護士 竹内重年)
今こそ問われる 政教分離の本来のあり方(京都大学名誉教授 大石眞)
宗教への偏狭な制約は、憲法の趣旨に合致せず(政治評論家 森田実)
旧統一教会問題を考える(上)――ミスリードしてはならない
旧統一教会問題を考える(下)――党利党略に利用する人々