『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第81回 正修止観章㊶

[3]「2. 広く解す」㊴

(9)十乗観法を明かす㉘

 ⑥破法遍(9)

 (4)従空入仮の破法遍①

 すでに述べたが、「広く破法遍」を明かす段落は、竪の破法遍、横の破法遍、横竪不二の破法遍の三段落に分かれている。最初の竪の破法遍を説く段は、さらに従仮入空(空観)の破法遍、従空入仮(仮観)の破法遍、中道第一義諦に入る(中観)破法遍の三段落に分かれている。これまで従仮入空の破法遍について説明してきたが、ここからは従空入仮の破法遍を説明する段である。この段は、入仮の意、入仮の因縁、入仮の観、入仮の位の四段に分かれる。

 ①入仮の意

 第一の入仮の意については、

 入仮の意とは、自(おのずか)ら但だ空従り仮に入ること有り、自ら空も空に非ずと知りて、空を破して仮に入ること有り。夫れ二乗の智・断は、亦た同じく真を証すれども、大悲無きが故に、菩薩と名づけず……菩薩は従仮入空して、自ら縛著(ばくじゃく)を破せば、凡夫に同じからず、従空入仮して、他の縛著を破せば、二乗に同じからず。有に処するも染められず、法眼もて薬を識りて、慈悲もて病に逗(ず)す。博く愛して限り無く、兼ね済(すく)いて倦むこと無く、心の用は自在なり……若し空に住せば、則ち衆生に於いて永く利益無し。志の利他に存するは、即ち入仮の意なり。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅲ)、近刊、頁未定。以下同じ。大正46、75中29~下11)

と述べている。仮に入る仕方に、ただ空から仮に入る場合と、空も空でないと知って空を破って仮に入る場合の二種があるとされる。二乗の智徳・断徳はともに真(空)を証得するけれども、大悲がないので、菩薩と名づけないとされる。菩薩は仮から空に入って自分で束縛執著を破れば、凡夫と同じではなく、空から仮に入って他者の束縛執著を破れば、二乗と同じでないとされる。有に身を置いても有に汚染されず、法眼によって薬を識別し、慈悲によって薬を病に投合する。広く愛して際限がなく、広く救済して怠けることがなく、心の働きは自在であるとされる。もし空に固着して留まれば、衆生を利益することはできず、他者に利益を与えることが、仮に入る意味であると示される。

 ②入仮の因縁

 入仮の因縁には、慈悲、本誓願、智慧、善巧(ぜんぎょう)方便、精進の五種があるとされる。つまり、仮=現実世界に出て、衆生を救済する菩薩道を展開するのには、この五つの因縁が必要であるとされる。菩薩道を考えるうえで、とても興味深い観点である。ここでは、『摩訶止観』の本文の引用を省略して。要点を示すのみにする。
 第一に慈悲というのは、衆生たちが顚倒を持ち、牢獄に束縛されて、脱出することができないのを見て、大慈悲を起こして、一人子と同じように愛することである。惑を断ち切って空に入る以上、衆生の苦を自己の苦と同じと見なす同体の哀れみの心は、ますます盛んであり、他人を先にし自己を後まわしにし、楽を与え苦を抜くことはいよいよ手厚いとされる。
 第二に本誓願というのは、過去世において立てた誓願の意である。この過去の誓願を思い出すことは、もともと広大な誓願を生じて、衆生の苦を抜き楽を与えて安らかで穏やかになるようにさせようとすることである。今、衆生に苦が多く、まだ救済されていない現状である。もし私だけが苦を免れるならば、過去の誓願に違背することになる。過去の誓願を忘れないからには、どうして衆生を捨てるであろうかと述べられている。
 第三に智慧というのは、空に入るときに、空のなかに他者を捨てる過失のあることを知ることである。なぜならば、もし空に留まれば、仏国土を浄化し、衆生を教化して、仏のすぐれた特質を完備することがすべてないことになるとされる。これは虚無主義的な空を戒めてたものであると思われる。
 第四に善巧方便(巧みな手立て)というのは、世間に入る場合、生死煩悩であっても、智慧を損なうことはできず、障害となって妨げるものは、いよいよ化導を助けるということをいっている。
 第五に精進の力というのは、仏道は長遠であるけれども、遙かに遠いとはせず、衆生は多数であるけれども、心に勇気があり、心は堅固で退くことなく、精進して修行を始め、最初から疲れ怠けることがないということである。
 さらに、智慧があっても、その他の四つの条件が備わらなければ、仮に入ることはできないこと、智慧が鈍くても、その他の四つの条件が備われば、仮に入ることができることが示される。最後に、声聞の人には鋭い智慧があるけれども、まったく四つの条件がないので、仮に入ることができないと指摘している。

 ③入仮の観

 次に従空入仮観の段の四段のうち、第三の入仮の観の段を紹介する。この段は、病を知る、薬を知る、薬を授けるという三段に分かれる。これは、『南本涅槃経』巻第二十三、光明遍照高貴徳王菩薩品の「仏、及び菩薩は、大医と為るが故に、善知識と名づく。何を以ての故に。病を知り、薬を知り、病に応じて薬を授くるが故に、譬えば良医の如し」(大正12、755中13~15)に基づくものである。

 (a)見思の病を知る

 病を知るとは、詳しくいえば、見惑・思惑の病を知ることである。見惑については、見惑の根本を知ること、見惑を起こす因縁を知ること、見惑を起こす時間的長さを知ること、見惑の重数(数を重ねること)を知ることの四段に分かれる。
 第一に、見惑の根本を知ることについては、一瞬の惑心が我見の根本となり、我見がさまざまな見の根本となること、この一瞬の惑心から無量の見を起こすことを指摘している。この見惑のために多くの煩悩に基づく行為を行ない、地獄・餓鬼・畜生の三途(三悪道)に落ち、沈没輪廻して止まることがないけれども、妄想があるので、心が起こると知り、また我に我はなく、ひっくり返った考えがあるので我が生じると知り、ひっくり返った考えや妄想が止めば、根本が止み、枝は自然と除かれると述べている。
 第二に、見惑を起こす因縁を知ることについては、内外の様相という因縁が相違するので、見惑を生ずることも同様に相違するといわれる。では、内外の様相とは何かといえば、衆生の居場所、時節の寒さ熱さ、国土の高さ低さ、養育の微細さと粗雑さ、食物の濃淡などのさまざまな相違を取りあげている。
 第三に、見惑を起こす時間的長短を知ることについては、ただ一世だけでなく積み重なって起こした見惑もあり、近い過去の世に起こした見惑もあり、この世ではじめて起こる見惑もあり、未来にはじめて盛んになる見惑もあることを知ることであると述べている。
 第四に、見惑の重数(数を重ねること)を知ることなについては、まず一の有の見から三仮を分けて出し、三仮から四句の止観(『中論』巻第四、観四諦品の「衆因縁生法 我説即是無 亦為是仮名 亦是中道義」[大正30、33中11~12]という偈を四句に分け、その四句に基づく止観をいう)を分けて出す。そうすると、三仮は合わせて十二句となる。さらに、四句から四悉檀を出すと十二句は合わせて四十八の悉檀となる。さらに一の悉檀から性空・相空を分けて出すと、四十八の悉檀は合わせて九十六の性空・相空の空となる。一々の句にそれぞれ止と観があり、合わせて百九十二句の止と観があることになる。前の根本(三仮の十二句、四十八の悉檀、九十六の性空・相空の空を合わせた百五十六句)について、全部で三百四十八句がある。信行の人についてこれだけの数がある。法行の人も同様である。さらに、信行が転換して法行となる場合も同様であり、法行が転換して信行となる場合も同様である。そうすると、信行の人、法行の人、信行から法行に転換した人、法行から信行に転換した人の四人について合わせて千三百九十二句があることになる。これは一の有の見に焦点をあわせていったまでであり、無の見、亦有亦無の見、非有非無の見についても同様なことがいえる。そうすると、四見について五千五百六十八句があることになる。これは単の四見についていったまでであり、複の四見、具足の四見についても同様である。単の四見、複の四見、具足の四見の三種の四見について、合わせて一万六千七百四句があることになる。ただし、不可説の見は、最初の有の見のようであり、ただ千三百九十二句があるだけである。これらを合わせて一万八千九十六句がある。これが破る対象である見の数である。破る主体も同様であるので、能・所合わせて、三万六千百九十二句があることになる。自行についてはこのようであり、化他も同様であるので、自行と化他を合わせると、全部で七万二千三百八十四句がある。もしあらためて六十二見・八十八使に焦点をあわせて三仮・四句などを論じると、無量無辺の句があり、窮め尽くすことができないとされる。
 以上が見惑の病を知ることに対する説明である。同様に、思惑の病についても、病の根本を知ること、思惑の起こる因縁を知ること、思惑の起こる時間的長さを知ること、思惑の病の重数(数を重ねること)を知ることの四段に分けて説明している。前の三段については、見惑を例としてわかるであろうとして説明を省いている。ただ、思惑(思仮)は、癡を根本としているとだけ述べている。第四の思惑の重数については、見惑の重数と同様に詳細に述べられているが、説明を省略する。
 最後に、菩薩が今、仮に出て観を修行し、それを助けとして法眼を開き、共通に止観によって仮を知る門とする場合、個別的な修行に、それぞれ方法があると述べ、さまざまな対象的思惟を止めることを止と名づけ、この思仮を対象とすることを観と名づける。大悲、過去の誓願、偉大な精進の力、諸仏の威力の加持があって、からっと開けて悟り、法眼の見、道種智の知を獲得し、思仮の病の様相を認識することが明白であると述べている。(この項、つづく)

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。