解散命令請求を認めた東京地裁
――2025年3月25日、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の不法行為をめぐって、東京地裁は国(文部科学省)が出していた「宗教法人法に基づく解散命令請求」を認める判決を下しました。
青山樹人 国側が解散命令請求の対象事実としたのは、同教団が遅くとも1980年頃から長期間・継続的に、不安や困惑、自由な意思決定に制限を加えるなどして、霊感商法や高額献金などをおこない、家族を含む多数の生活の平穏を害したというものです。
――これまで解散命令請求が出された教団は、オウム真理教(1995年請求)と明覚寺(1999年請求)の2件だけでした。
言うまでもなく、オウム真理教は坂本弁護士一家殺害事件や公証人役場事務長の殺害事件、松本サリン事件、地下鉄サリン事件など、犯罪史上でもまれに見る数多くの凶悪犯罪を実行しました。
明覚寺の事件とは、それ以前から霊視商法が社会問題化していた宗教法人が、新たに休眠状態の宗教法人を買収して正体を隠し、「水子の霊が憑いている」などと脅迫して多額の供養を集めていたものです。15人が詐欺罪で逮捕・起訴され、最高幹部は懲役6年の実刑判決を受けました。
青山 この2件は、いずれも刑事事件であり、教団の最高幹部らが逮捕されていました。一方、今回の旧統一教会は民法上の不法行為が理由とされたものです。
もちろん旧統一教会が長年おこなってきた霊感商法や高額献金はきわめて悪質で、到底容認できるものではありません。多くの人が人生を狂わされて苦しんでいます。
ただ一方で私個人は判決の前、「はたして裁判所が解散を認めるに至るだろうか」と考えていました。
――宗教界の反応も、解散命令請求を「当然だ」と見る向きと「不当だ」と見る向きと分かれているようです。報道によると、創価学会は「回答は控える」としたうえで、「信教の自由を厳守する観点から、宗教に対する公権力の行使は慎重であるべきだ」との考えを示したということです。
青山 私の勝手な推測ですが、創価学会は政権与党である公明党の支持母体でもあるので、賛否の回答は控えたのかもしれません。しかし、この「信教の自由を厳守する観点から、宗教に対する公権力の行使は慎重であるべきだ」とのコメントは重要だと思います。
私自身、もちろん旧統一教会の事案がきわめて悪質であることに異論はないのですが、解散命令請求を裁判所が認めたことには、ある種の驚きを覚えています。
というのも、今回は捜査機関が立件して裁判所が有罪判決を下した刑事事件ではなく、民法上の不法行為を理由とした解散命令請求です。過去には、刑事事件を起こしながら、解散命令請求が認められなかった例や、解散命令請求が出なかった例もあるのです。
曹洞宗が示した重要な論点
青山 2023年10月に旧統一教会への解散命令請求が出された折、読売新聞からの取材に答えるかたちで、たとえば曹洞宗の宗務庁は以下のような回答を寄せています。
これには重要な論点が示されているので、少し長くなりますが、そのまま紹介させていただきます。
解散請求については反対あるいは慎重を期すべきである。宗教法人法に規定されているのは解散命令となる。第81条の規定に従って解散を命じる場合、裁判所から解散命令が出ることとなるが、法人が解散されるだけであって、旧統一教会の信者たちの宗教行為を止めることは出来ず、再度名義を替えるなどをして別の宗教法人を設立しようとすれば、所轄庁はこれを認証することしかできないはずである。つまり、法人の解散では二世信者被害を止めることができない。
更に、解散をさせたとしても、その後は宗教法人ではなくなるため、都道府県知事と文化庁による管理を逃れることになる。つまり宗教法人として義務付けられる役員名簿や財産目録、収支計算書の提出も必要なくなり、文化庁が調査権を行使することもできなくなる。
また、政府が解散命令を請求してから、裁判所が認めるまでの間に、旧統一教会側が保有財産を日本国内に保持するか否かは不明であるため、被害者への補償の財源確保に支障を来す恐れもある。
性急に解散命令へと向かうだけでなく、実際に被害に遭われた方々への補償、また、曹洞宗をはじめ他の宗教団体、宗教者には、旧統一教会に拠り所、居場所を求めている信者たちへの寄り添いと新たなる受け皿となる、拠り所、居場所の提供や、二世信者や家族への寄り添い支援が求められていると思料する。
むしろ、世間全体で信者の方々を責めれば、信仰心が激化しさらなるカルト化を引き起こす可能性が高くなる。だからこそ、解散命令を請求し、実行したのみでこの問題を終わらせてしまうことは避けるべきだと考える。(「旧統一教会への解散命令請求に係る新聞報道について」2023年11月22日)
――仮に司法が最終的に解散命令を出したとしても、単に今の団体が法人格を失うだけで、別法人の設立を阻むことはできないし、逆にさまざまな問題が見えづらくなってしまう恐れがあるということですね。
青山 事実、教団は1987年に北海道に天地正教という別の宗教法人を登記しており、2009年6月時点で、旧統一教会が解散させられることを想定して、「残余財産を天地正教に移す」ことを決議していたようです。
2009年6月といえば、〝印鑑の相を変えなければ不幸になる〟などと脅迫する霊感商法で、傘下企業の社長を務める教団信者ら7人が逮捕され、関係先が家宅捜索された時期です。旧統一教会は「コンプライアンス宣言」を出し、教団改革に着手したことを公表していました。
「公権力の介入強化」への懸念
青山 懸念はさらにあります。先ほど述べたように、これまでは刑事事件で有罪となった事案でも、国は全部を解散命令請求の対象にすることはせず、オウム真理教と明覚寺の2件のみでした。
それほど、公権力が人々の信仰に介入することには慎重さを保ってきたのです。
それが今回は「民法上の不法行為」で解散命令請求が出された。曹洞宗もこの点を重く見て、「政府は従来のあり方に対して、解散請求の条件を拡大した可能性」があると警鐘を鳴らしています。
社会学者や政治学者のなかにも、この「公権力の介入強化」の流れに懸念を表明する声があります。
政治学者の河野有理・法政大学教授は、国が解散命令請求の可能性に言及しはじめていた2022年末の時点で、次のように述べていました。
「反社会的集団だから潰してしまえ」という世論に流され、宗教団体解散のハードルが著しく低くなってしまうのは危険です。「良い人にしか人権はない」ということも「立派な宗教にしか信教の自由はない」ということもありません。冷静に歴史的な先例と比べて判断することが必要です。基準を急激に変えてしまうことは将来に禍根を残す可能性もある。(『朝日新聞』2022年12月1日)
――つまり、反社会的な行為を繰り返している教団を批判することと、「すべての人の人権」「信教の自由」を守ることは、立て分けて考えなければいけないということですね。
青山 よく、日本人は宗教音痴だと言われてきましたが、「公権力と宗教の関係」にも無関心なのです。言い換えれば、「公権力と個人の内心の関係」について、あまり深く考えようとしない。
学会と公明党に対して的外れな〝政教分離違反〟という中傷が消えないのも、「公権力と宗教の関係」が国民に正しく理解されていないからです。
あとで触れますが、この無関心さが結果的に昭和の戦争遂行への総動員体制を招いてしまったことを忘れてはならないと思います。
オウム真理教が地下鉄サリン事件などを引き起こした直後、オウムへの恐怖感や嫌悪感が社会を覆うなかで、本来は〝公権力から宗教を守るため〟の宗教法人法を、〝公権力が宗教を監視する〟方向に変えようという真逆の動きが、政局がらみで公然となされました。
異論を唱えたのは創価学会や京都仏教会など少数で、多くの国民やメディア、宗教団体は、そもそも何が問題なのかさえも深く理解していなかったのです。
今回も、多くの国民のあいだでは旧統一教会に対する〝処罰感情〟の強さもあって、解散命令請求は当然だという空気が強い。
しかし、旧統一教会の引き起こした被害の深刻さや責任と、宗教に対する公権力の行使の是非は、あくまで別問題として議論していくべきだと私は思っています。
解散命令の是非については、さまざまな考え方があることも承知しています。すぐに判断のつかない事柄に耐える「ネガティブ・ケイパビリティ」が求められる局面かもしれません。
立て分けて考えろと言われても感情的に難しいことかもしれませんが、「信教の自由を守る」うえで、とくに創価後継の青年には問題意識を簡単に手放さないでほしいと願っています。
「宗教法人法」がつくられた意味
――「宗教法人法」をめぐっても、無認識の批判が少なくありません。
青山 誤解している人が多いのですが、まず宗教法人法に定める宗教法人は「認可制」ではなく「認証制」です。法に定められたいくつかの要件が整えば、自動的に法人格として「認証」されなければならない。この時点で、信教の自由に対する公権力の介入を排除しているのです。
つまり、ある種の「性善説」に立っているのですが、これは信仰の内実に関して〝いい宗教〟と〝悪い宗教〟を公権力が判断してはならないからです。
たとえば世の中には、キツネや蛇を祀っているような有名な神社もありますよね。ご神体が性器をかたどった彫像やサッカーボールという神社もあります。そういえば「法主は御本尊と不二の尊体」などと主張する宗派もありましたね(笑)。
これらをインチキだと思う人もいれば、どうでもいいと思う人、ありがたいと信じている人もいます。人々のあいだでその是非を議論するのは自由でしょう。
互いの信仰について批判し合うことも含めて「信教の自由」だからです。しかし、公権力がそこをジャッジしてはいけないのです。
今年は戦後80年の節目ですが、あの戦争を遂行させる大きな原動力となったのが「国家神道」でした。政府は〝神道は祭祀であって宗教ではない〟というロジックで、国家神道を国民に強要し、精神的に従属させて総動員体制を完成させていったのです。
創価学会の牧口初代会長と戸田理事長は、これに従わなかったことで逮捕・投獄され、牧口先生は獄死しました。
――信仰、つまり〝心のなか〟を支配することで、国に命じられるまま、国民が戦争遂行に突き進む社会を作り出していったわけですね。
戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が日本政府に対して最初に発出したものの一つが、国家神道の解体を命じる「神道指令」でした。
青山 日本の軍部政府が宗教を利用して国民を戦争に駆り立てていたことを理解していたからです。
そして、公権力が宗教に介入することの危険性への反省から生まれたのが、憲法20条の「信教の自由」「政教分離」です。さらに、公権力ができるかぎり宗教に介入しないよう「信教の自由」「政教分離」を担保するために作られたのが宗教法人法なのです。
信仰というのは、何の外形的な姿もなしに個人の心のなかだけで完結するものではありません。やはり一般的には祈る対象を祀り、礼拝や祈願、修行など具体的な実践を伴います。
よい信仰だと考えれば、人に弘めようという使命感を持ちますし、同じ信仰を持つ人々で励まし合ったり、学んだり、儀式をおこなったりもします。
本当の意味で国民の「信教の自由」を保障するためには、これらの自由を担保しなければならない。そのために生まれたのが「宗教法人法」です。
一定の要件を備えた信仰の共同体に法人格を与え、財産を所有・運用し、業務を運営できるようにするものです。
宗教法人法の第一条には、
この法律は、宗教団体が、礼拝の施設その他の財産を所有し、これを維持運用し、その他その目的達成のための業務及び事業を運営することに資するため、宗教団体に法律上の能力を与えることを目的とする。
と明記されています。
宗教法人法がもしなければ、たとえば寺や神社の不動産やお布施などは、住職や神主などの個人資産にするしかなくなり、課税対象になりますよね。人件費や礼拝施設の維持建設費用も、個人の資産から出さなければならない。
もしも住職や神主が亡くなったら、相続税を捻出するために不動産を処分することにもなりかねません。
なぜ宗教法人は非課税なのか
――世のなかには、宗教法人は「免税」されていると思い込んでいる人も多いようです。本来は宗教活動に関してのみ「非課税」なのですが。
青山 地方税法では、鉄道や空港、公道、学校法人、医療法人、社会福祉法人などの固定資産には、その公益性から固定資産税を課さないと定められています。
そこに同じく宗教法人も、「専らその本来の用に供する」「境内建物及び境内地」は固定資産税を課さないと定められているのです。「専ら」とは、大部分においてという意味です。
一般論として、宗教には人々の心に安らぎや慰め、倫理観をもたらすと考えられています。「国家」と「個人」のあいだに位置する中間団体としてコミュニティを形成し、多様な価値観を社会に提供しているという意味でも〝公益性〟があります。
法人税は法人の利益に課税されるものですが、宗教法人は営利目的ではありません。賽銭やお布施は寄付に相当するうえ、故人への追善、自身の祈願成就や教団の維持発展を願ってなど、それを支払う人の信仰心と密接不可分です。
なので、こうした宗教活動としてのお金は所得税の対象(=利益)と見なさないのです。
信仰心から宗教的な目的のために供出したお金に国が課税することは、それ自体が「公権力の信仰への介入」にもなりかねない。
もちろん、駐車場経営などの事業収入は課税対象になります。
もし、境内地や礼拝施設、寄付や賽銭などに課税するとなると、ほとんどの宗教法人は経営が立ちゆかなくなり、小規模な寺院や神社から消滅していきますよ。
――なるほど。憲法20条が「信教の自由」「政教分離」を定めても、宗教法人法がないと実際にはそれらが担保されないのですね。
青山 「信教の自由」を担保し、人々の内心への公権力の介入をできるだけ遠ざけるために生まれたのが宗教法人法なのです。
それを180度反対に、国が宗教を管理すべきだという方向に動いたのが、1996年の宗教法人法改正でした。戦後の民主主義を覆すような暴挙だったにもかかわらず、大多数の国民はオウム事件の衝撃から、むしろ〝管理を強めろ〟という論調に流されていました。
だから、創価学会の青年の方々には、今回の社会の空気に対しても、冷静にことの本質や推移を見てほしいのです。
コミュニケーションを図るチャンス
――今また、この旧統一教会の問題に便乗して、創価学会を批判中傷している人々がいますね。
青山 30年前のオウム事件のときと同じ構図です。当時は、閣僚ら与党の政治家が〝創価学会の撲滅〟を訴えて団体を結成し、ニュースキャスターやクイズ番組などで全国的に有名だった評論家が代表幹事を務め、多くの宗教団体が参加するという異常な状況があり、そこにオウムのテロが起きたのです。
便乗するように、いくつもの週刊誌が創価学会による〝殺人〟〝レイプ〟等があったかのようなデマ報道を繰り広げました。むろん、いずれも司法の場で厳正に裁かれ、最高裁で決着がついています。
このあたりの詳細は拙著『新版 宗教はだれのものか』にも書きましたので、知りたい方は是非お手に取っていただければと思います。
今もまた、こうした悪質な中傷や無認識の批判が起きているときだからこそ、一緒に考えたいことがあります。
『第三文明』(2025年5月号)に、西田亮介・日本大学危機管理学部教授と公明党の安江のぶお参議院議員の対談が掲載されています。
私が非常に興味深く読んだのは、公明党の情報発信に対する以下のような西田教授の指摘です。
まずは旧統一教会問題に関する発信です。政治と宗教への人々の批判的な声の多くは、裏を返せば無党派層や宗教への関心が乏しい人々の素朴な声でもある。そうした人々とのコミュニケーションのチャンスだったわけですが、公明党から政治と宗教に関する真正面からの発信はなかったように思います。
公明党の皆さんは自分たちのことをマイノリティー(少数派)と認識している節があり、どちらかと言えば〝今は耐え忍ぶ時だ〟といった感覚が強かったのではないでしょうか。しかし外から見れば、公明党は日本では類を見ない規模と熱量を有する支持母体を持っています。僕はそれを〝隠れたマジョリティー(多数派)〟と呼んでいるのですが、そうした外からの目線をもう少し意識されたほうがよい気がします。(『第三文明』2025年5月号)
これは重要な指摘だと思います。じつは西田教授は2023年1月に、創価学会に対してもまったく同じことを提言されていました(『創価新報』1月18日付紙上での西方青年部長・林池田華陽会委員長との鼎談)。
世のなかが宗教、とりわけ政治的影響力を持った宗教に警戒心や不安を強めているときだからこそ、創価学会にとっても公明党にとっても、コミュニケーションを図るチャンスなのです。また、その責務があります。
世の中の多数の人には、創価学会が何を考え、何を生み出し、世界からどう評価されているか、ほとんど知られていない。海外に広がっていることさえ知らない人が、私の周囲にも結構います。
最近、公明党が始めた「公明党のサブチャンネル」が、他党の関係者や支持者のあいだでも高評価です。そこでも何人かのゲストから「公明党のイメージは不気味だ」と率直な声がありましたね。
無認識の批判にエキセントリックに反応しすぎるのではなく、むしろ大きく社会に開かれていくチャンスが到来したと考えたい。この問題は、引き続きこの連載で考えていきましょう。
連載「広布の未来図」を考える:
第1回 AIの発達と信仰
第2回 公権力と信仰の関係
特集 世界はなぜ「池田大作」を評価するのか:
第1回 逝去と創価学会の今後
第2回 世界宗教の要件を整える
第3回 民主主義に果たした役割
第4回 「言葉の力」と開かれた精神
第5回 ヨーロッパ社会からの信頼
第6回 核廃絶へ世界世論の形成
第7回 「創価一貫教育」の実現
第8回 世界市民を育む美術館
第9回 音楽芸術への比類なき貢献
「池田大作」を知るための書籍・20タイトル:
20タイトル(上) まずは会長自身の著作から
20タイトル(下) 対談集・評伝・そのほか
三代会長が開いた世界宗教への道(全5回):
第1回 日蓮仏法の精神を受け継ぐ
第2回 嵐のなかで世界への対話を開始
第3回 第1次宗門事件の謀略
第4回 法主が主導した第2次宗門事件
第5回 世界宗教へと飛翔する創価学会
「フランスのセクト対策とは」:
フランスのセクト対策とは(上)――創価学会をめぐる「報告書」
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フランスのセクト対策とは(下)――ヨーロッパでの創価学会の評価
仏『ル・モンド』の月刊誌がフランスの創価学会のルポを掲載――その意義と背景
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「政教分離」の正しい理解なくしては、人権社会の成熟もない(弁護士 竹内重年)
今こそ問われる 政教分離の本来のあり方(京都大学名誉教授 大石眞)
宗教への偏狭な制約は、憲法の趣旨に合致せず(政治評論家 森田実)
旧統一教会問題を考える(上)――ミスリードしてはならない
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