記憶を行き来する中で霞む存在の危うさ
朝吹真理子(あさぶき・まりこ)著/第144回芥川賞受賞作(2010年下半期)
多くの選考委員がその才能を評価
前回取り上げた「苦役列車」とダブル受賞となったのが、朝吹真理子の「きことわ」だった。当時26歳。詩人で慶応大学教授の朝吹亮二の娘であり、フランソワーズ・サガンの翻訳を多く手がけた朝吹登水子を大叔母に持つという、いわばサラブレッドということもあって、受賞前から多くの関心を集めたようである。実際、選考会では少しの難点を指摘する声を除いて、多くの選考委員がその才能を高く評価している。
主人公は永遠子(とわこ)と貴子(きこ)。初めての出会いは永遠子が15歳、貴子が8歳。貴子の両親が所有する葉山の別荘を管理していたのが逗子に住む永遠子の母親。その関係で、毎年夏になると2人は、その別荘でまるで本当の姉妹のように遊ぶのだった。
やがて、貴子の家族が別荘に来ることがなくなって以降、2人は会うことも連絡を取り合うこともなくなり、再会したのが、その別荘を取り壊すことになった25年後のこと。永遠子も貴子もすでに大人になっていた。
物語の展開は実に複雑で不思議だ。永遠子と貴子が、それぞれに時間をさかのぼり、記憶をたどり、時には夢か現実か分からない中を彷徨いながら、物語は進んでいく。それぞれの話のパーツは、実に絵画的で印象に残るのに、それ自体がそもそも本当の記憶としてあったことなのか、よく分からない。夢なのかもしれないし、錯覚なのかもしれない。
その繰り返しの中で浮かび上がってくるのは、記憶というもののもろさや儚さだ。永遠子と貴子との間に流れた時間だけではなく、生命誕生以来の地球の遠い記憶さえもそこに含まれていて、果たして本当にそこにそのような時間が流れていたのか、そのような現実があったのか、全てが薄ぼんやりとして霞んでくるのだ。そこからは、記憶や時間のみならず、この世の存在そのものの儚ささえ浮かび上がってくるのである。
全ては細かく緻密に計算されているようで、随所に隠された仕掛けがその不思議な世界を構築している。例えば別荘。非日常空間の象徴ともいえる別荘、しかも空き家となった別荘は、まさに時間と記憶を喪失したような存在だが、そこで濃密な幼少期を過ごした2人の少女が大人になって再会する。そこでは、別荘はいわばタイムカプセルの役目を果たしている。
五感をフル稼働する感受性
池澤夏樹はこう評価。
時間というテーマを中心に据えた作品である。抽象的なものを具体的に語るのが小説だとすれば、これは稀有な成功例と言うことができる
小川洋子も高く評価している。
『きことわ』の人物たちにはまるで質量がないかのようだ。どんなに重量のある恐竜でも、化石になればぽろぽろと掌からこぼれ落ちてゆくのと同じように、時間の流れの中で、貴子も永遠子も輪郭を失っている。どちらがどちらか、区別のつかない一続きのものになってしまう。(中略)古生代から現代まで、葉山の坂の上からマリアナ海溝まで、時は自由自在に移動するが、ふと気づくと、結局は小さな淀みの中をひととき漂っていただけなのかもしれない、という不思議な感触が残る
宮本輝も高評価。
ジグソーパズルの小さなピースに精密でイメージ喚起力の強い図版が描かれてあって、そのピースを嵌め込んで完成した全体図は奇妙に曖昧模糊とした妖しい抽象画だというのが朝吹真理子さんの『きことわ』である。その難易度の高い絵画的手法を小説の世界でやってのけた二十六歳の才能はたいしたものだと思う
こうした高度な技巧的な作品を支えているのは、その優れた文章力である。彼女自身の中から湧き出てくると思われる独特のリズムの中で、多くの人が見逃しそうな匂いや音や味を鮮やかに拾い上げてさりげなく書くことで、読み手に作品世界に没入していく喜びを感じさせるのだ。
髙樹のぶ子はこう述べている。
『きことわ』は、触覚、味覚、聴覚、嗅覚、そして視覚を、間断なく刺激する作品、この受感の鋭さは天性の資質だ。感覚で摑まえたものを物や事象に置き換え、そこに時間の濃淡や歪みを加えて、極彩色の絵画を描いてみせた
多くの選考委員がその才能に期待を寄せた26歳の作家だったが、その後に発表した小説作品数は少なく、もっぱらエッセーや対談が多い。書けなかったのか、書かなかったのかは、不明である。
「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』 第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』 第13回『おでるでく』 第14回『この人の閾(いき)』 第15回『豚の報い』 第16回 『蛇を踏む』 第17回『家族シネマ』 第18回『海峡の光』 第19回『水滴』 第20回『ゲルマニウムの夜』 第21回『ブエノスアイレス午前零時』 第22回『日蝕』 第23回『蔭の棲みか』 第24回『夏の約束』 第25回『きれぎれ』 第26回『花腐し』 第27回『聖水』 第28回『熊の敷石』 第29回『中陰の花』 第30回『猛スピードで母は』 第31回『パーク・ライフ』 第32回『しょっぱいドライブ』 第33回『ハリガネムシ』 第34回『蛇にピアス』 第35回『蹴りたい背中』 第36回『介護入門』 第37回『グランドフィナーレ』 第38回 『土の中の子供』 第39回『沖で待つ』 第40回『八月の路上に捨てる』 第41回『ひとり日和』 第42回『アサッテの人』 第43回『乳と卵』 第44回『時が滲む朝』 第45回『ポトスライムの舟』 第46回『終の住処』 第47回『乙女の密告』 第48回『苦役列車』 第49回『きことわ』