宗教ゼロ状態
本書『西洋の敗北』は、ウクライナ危機を始めとする現在の世界の危機の原因を明らかにし、今後の世界の在り方を展望した、今もっとも注目すべき一書である。
著者のエマニュエル・トッド氏は、ソ連崩壊やリーマン・ショックなどを次々に言い当てたことから、現代の予言者と形容されることもある。しかし、そうした予言は神がかり的な霊感によるものではない。歴史人口学と家族人類学に基づきデータを精緻に分析する、卓越した知性から生まれたものだ。
現在の世界が置かれている危機的状況はロシアから生まれたのではなく、ましてやウクライナから生まれたものでもない。問題の本質は西側諸国(イギリス、フランス、アメリカ)の自壊現象である「西洋の敗北」にこそあり、そしてその原因は宗教消滅「宗教ゼロ」にこそある。世界各地の家族構造と人口動態に着目した独自の観点から、トッド氏は極めて大胆な議論を展開している。この「宗教ゼロ」に関する分析は、本書の白眉であり、理解するための重要な鍵である。
宗教ゼロ状態の特徴とは何か。社会生活、道徳、集団行動などを形成してきた宗教の価値観が、まったく意味をなさなくなる状態である。かつてこの宗教が社会的かつ道徳的空間を広範にわたって占有していたことを鑑みれば、この宗教ゼロ状態が影響を及ぼす分野は数え切れないことは明らかだ。(本書170ページ)
トッド氏は、これまでの西洋文明の発展の基礎には、キリスト教なかんずくプロテスタントのカルヴァニズムがあると考える。これまで聖職者に独占されラテン語で書かれていた聖書を、万人司祭説に立つプロテスタンティズムは西洋各地の言語に翻訳した。これによって識字率が向上し、教育が普及し、工業の飛躍的発展が可能になった。また、土着の書き言葉の普及は国民の誕生をも促した。
こうしたプロテスタンティズムは歴史的に3つの段階をたどったという。
(1)「活動期的段階」:この段階では人々の信仰は健在で、教会のミサへの参加率も高い。
(2)「ゾンビ段階」:この段階に入ると、信仰心は希薄になるが、誕生、結婚、死、という人生の重要な局面でキリスト教の儀式を執り行う。また人道主義、国家主義、共産主義など、代替宗教が登場するようになる。宗教の形式や文化は残り、人々に影響を与え続けている。通常、宗教研究者から「世俗化」とされる状態である。
(3)「宗教ゼロ段階」:これこそが、トッド氏が本書で新たに提示した独自の概念だ。宗教から受け継いできた慣習や価値観も消滅してしまい、代替となるいかなる集団的信仰も失った絶対的虚脱状態のことだ。
宗教ゼロ状態に西洋諸国が至ったのは21世紀の初頭である。個人主義という考え方が生まれた絶対的核家族構造を持つ西洋の地域(イギリスやアメリカ)で、新自由主義化が急速に進展し「宗教ゼロ状態」が生まれ、西洋の自壊現象が始まったという。
人間の矮小化とニヒリズムを生み出す
あらゆる集団的信仰(中略)から一斉に解放された私たちは今、空虚さを経験し、小さくなっている。もはや敢えて自分の頭で考えることもなく模倣を繰り返す小人の群れと化している。ただそれでいて、不寛容の度合いにおいては、かつての宗教の信者に劣っていないのである。(本書172ページ)
「宗教ゼロ」は、「道徳ゼロ」であり「歴史ゼロ」である。宗教が消滅した地域であらゆる集団が消滅してしまい、自身の欲望を乗り越え、よりよい自分になることを促した理想も見失われてしまう。良心や神といった自身の内なる他者も蒸発してしまう。あとに残されたのは、自分の欲望のみを信じそのときどきの状況に応じて行動する、極端な視野狭窄に陥った個人である。理想がないので他人の模倣しかできず、自分しか目に映らないので他者に対して極端に不寛容になる。
これまで近代の理想とされた個人の解放は、かつてないほど矮小化した小人の群れを生み出してしまった。これほどの歴史の皮肉があろうか。
「宗教ゼロ」は最悪の場合、虚無を崇拝するニヒリズムを生み出す。このニヒリズムは「物理的次元」と「概念的次元」の破壊欲動にあらわれるという。物理的次元は戦争を例にとれば分かりやすい。戦争は人や物を徹底的に破壊する。概念的次元は真理や合理的にものごとを捉えることを破壊しようとする。多様性尊重の名を借りた他者への無関心、人種・ジェンダーという差異への〝極端なこだわり〟もこうしたニヒリズムのあらわれなのであろうか。
新たなる宗教性の台頭こそ時代の要請
西洋の敗北は、日本が「独自の存在」としての自らについて再び考え始める機会になるはずである。(本書6ページ)
本書は西洋を2種類に分類する。広義の西洋とは「経済的近代の西洋」であり、ここにはアメリカ、イギリス、フランスやドイツのほか、日本までもが含まれる。狭義の西洋とはイギリス、フランス、アメリカである。日本は他の西洋諸国と比べると世俗化は進んでおらず、「宗教ゼロ」という状況を未だ迎えていない。
しかし「ニヒリズムは西洋諸国に偏在している」との指摘のとおり、日本にもその影響は確実に及んでいる。例えば、先般の知事選挙を巡る悲喜劇や根拠なき排外主義的言動の増加も、その表れではないだろうか。
これまで日本は西洋を手本に近代化に邁進してきた。しかし西洋の自壊を目の当たりにした今こそ、その発展モデルを見直し再考する必要がある。親日家としても知られるトッド氏は日本の読者へこのことを示唆している。
本書では、今後の世界は西洋の力が徐々に弱まり、多極的な世界へと移行することが展望されている。それまでの間、予測するのが極めて難しい混乱した時代が続くとする。だが、その見通しはあまりにも暗く、人類は核戦争の不安に怯えながら生存し続けなければならない。
私たちが混沌とした時代を突破し、未来への希望を手にするためには、新しい宗教性を見いだすことが必要なのではないか。人間を再び強く賢くする理想を取り戻し、失われた他者性を蘇らせ、バラバラになった個人を再び統合する。そうした宗教性なくして、現代のニヒリズムを乗り越えることはできない。新しい宗教性の台頭こそ、21世紀に生きる民衆の要請なのである。
『西洋の敗北 日本と世界に何が起きるのか』
(エマニュエル・トッド著、大野舞訳/文芸春秋社/2024年11月10日刊)
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