外交戦略としての四天王寺
鳳書院が展開する新シリーズ「アジアと芸術」の第3弾として刊行された。地理的には東北から九州まで、時間的には7世紀から現代まで、日本各地に点在する「法華経ゆかりの風景」を120点余の写真と12本のエッセーで描き出す。
巻末には、日本思想史研究の第一人者であり、「日本学」の研究者としても国際的に著名な、佐藤弘夫・東北大学名誉教授による「解説」が掲載されている。
冒頭は「奈良と大阪」で、聖徳太子が創建した法隆寺と四天王寺。日本一の超高層ビルである高さ300メートルの「あべのハルカス」展望台からは、眼下に四天王寺の伽藍が一望できる。林立するマンション群に囲まれ、そこだけ緑の木々で区切られた四天王寺の姿は、まるで現代と古代が混然一体となったかのようだ。
7世紀の初めに創建されたと伝えられる四天王寺は、いくたびか戦火に見舞われ、ことに第二次世界大戦の空襲で灰燼に帰した。今日の伽藍は、創建当時と同じ位置に、同じ配置で再建されたもの。
7世紀の大阪湾は今よりもかなり内陸まで湾が入り込んでいて、四天王寺が建つ天王寺駅から北の大阪城あたりまでは、湾に突き出た丘陵地の岬のようになっていた。この寺院は、倭国(日本)を訪れる外国使節が到着する難波津に近いこの地に、百済の建築技術を用いて建設された最先端技術の〝ランドマークタワー〟だったのである。
推古天皇の時代、途絶えていた日本と中国との国交が百二十年ぶりに再開している。隋の使節団は、難波津から大和川を通り、飛鳥に向かったという。強大な隋と対等な立場で国交を結ぶためには、倭国(日本)がそれに値する国だと使節団に認めてもらう必要があった。(本書)
聖徳太子は自ら宮中で法華経を講じ、日本最古の書籍とされる『法華義疏』(御物)が今日に伝わる。為政者が仏教を信仰し、ことに法華経を理解していることは、当時の東アジアにおいてなによりも先進国の証であった。
まだ「日本」という国号もなかった時代、この国の中央集権国家としての本格的な船出は、法華経とともに始まったのである。
法華経による大乗戒壇
日本に法華経を根本とする天台宗を伝えたのは伝教大師・最澄である。最澄は自身も受戒した東大寺での「戒」を上座部(小乗)の戒にすぎないと批判して捨て、法華経によって出家・在家・男女の差別なく菩薩戒を受けることができる新たな「大乗戒壇」の建立をめざした。
南都からの激しい批判を乗り越え、比叡山延暦寺に戒壇の勅許が下りたのは、822年、最澄が没して1週間後のことであった。
今回、『法華経の風景』の取材では、特別に延暦寺の根本中堂(改修工事中)の撮影も許可されたという。
最澄によって「法華最第一」の天台大師の法門が中国から日本に移植され、新たに大乗戒壇が誕生した。これによって平安期の貴族社会では法華経が広く信仰され、『源氏物語』など法華経文化が花開いていった。
また、叡山は仏教を学ぶ者にとっての最高学府となり、いわゆる鎌倉仏教の祖師たちもここから輩出されていく。日蓮もその1人であった。
「鎌倉」を扱ったページでは、その鎌倉を舞台に歴史に大きな足跡を残した2人――源頼朝と日蓮――が登場する。
鎌倉幕府をひらいた源頼朝は、法華堂に小さな観音像を安置し、法華経を信仰していた。鎌倉市内には、今もその法華堂の跡が残り、周辺は頼朝の墓所と伝えられている。
安房国に生まれた日蓮は叡山で修学したのち、当時の政都であった鎌倉で「南無妙法蓮華経」の題目を根本とした独自の宗教運動を展開していく。
相次ぐ天変地異で苦しむ民衆の姿を目の当たりにしていた日蓮は、1260年、『立正安国論』を執筆し、時の最高権力者・北条時頼に提出した。だがこれを契機に、鎌倉で繁栄の既得権を得ていた諸宗や、それらを庇護する幕府権力者らからの反発と弾圧を招く。
なかでも最大の試練は、捕縛され竜ノ口の刑場で夜陰に紛れて斬首されようとした「竜ノ口法難」であった。日蓮の残した複数の遺文によると、まさに斬首が執行されようとした刹那、江ノ島の方角から「月のように光るもの」が漆黒の空を横切り、現場は大混乱となって処刑は中止となった。
写真家の宍戸氏は、その刑場があったと思われるあたりから江ノ島にレンズを向けた。どのように撮影したのかはわからないが、暗闇と明るい光が溶け込んだ乳白色の画面に浮かび上がる江ノ島の影は、時空を超えて、750年前の法難の瞬間を覗き見たような迫力に満ちている。
渋谷の繁栄と法華経
最終節を飾る舞台は、長野と渋谷。本書のカバーにも現在の渋谷の雑踏を撮った1枚が使われている。
渋谷は今、IT関連のスタートアップ企業が集結し、従来の若者の街としての顔に、新たに大人の街としての表情が重なりつつある。100年に1度という渋谷駅周辺の大改造は現在進行中で、本書にも真新しい超高層ビル群と工事現場に林立するタワークレーンが写し出されている。
この渋谷の繁栄を築いたのは、東急電鉄の創業者・五島慶太である。20世紀前半、一代で東急コンツェルンを築き上げた彼は、1882年に長野県・青木村殿戸に生まれた。愛情深い両親は熱心な法華経の信者で、慶太は毎日、父が唱える題目を聞いて育ったという。
苦学の末、一旦は教員として働き、25歳で東京帝国大学に入学。29歳で卒業して当時の農商務省に入省し、鉄道院に進んだ。
明治から大正、時代の趨勢をよくとらえていた五島慶太は、渋沢栄一らと呼応して、やがて鉄道省を辞して民間の鉄道経営に参画する。
財を成してからは茶道具のほか、《源氏物語絵巻》をはじめとする貴重な美術品、膨大な書誌の蒐集に努め、それらは逝去の翌年に開館した五島美術館に収められている。
五島美術館が建つ多摩川沿いの斜面は慶太の広大な邸宅跡の一部だが、文を担当した菅井理恵氏は、
多摩川に向かって傾斜する庭園は、どこか青木村の殿戸を思い起こさせる。(本書)
と記している。
慶太は晩年に記した『七十年の人生』のなかで、父母から法華経への信仰を感化されたことを深く感謝し、つぎのように綴った。
私は、どんな困難があっても、どんな苦しみを受けても、或いは病気になっても、南無妙法蓮華経というお題目を唱えることによって、悉くこれに打ちかつことができるという確信を心の底に持って、今日まで何ごとによらず七十年間やってきた。(本書)
本書のカバーと最終節にまさに変貌しゆく渋谷の街が登場しているのは、法華経が過去の日本を形づくってきただけでなく、今から未来においても新たな創造の可能性を持っていることを暗喩しているのであろうか。
読者は、法華経と日本の深いつながりを、テンポのよい平易な言葉で俯瞰することができるだろう。新しい視点で日本各地を旅するガイドブックとしても楽しめる一冊である。
『法華経の風景』
写真 宍戸清孝/文 菅井理恵
定価:3,300円(税込)
2024年11月12日発売
鳳書院(電子版は第三文明社刊)
→公式ページ
→Amazonで購入
【目次】
第一章 古代
奈良と大阪(聖徳太子)
福岡・太宰府(観世音寺)
奈良(鑑真)
比叡山延暦寺(最澄)
岩手・平泉(奥州藤原氏)
嚴島神社(平清盛)
第二章 中世から近代
神奈川・鎌倉(源頼朝・日蓮)
京都(本阿弥光悦)
石川・七尾(長谷川等伯)
大阪・堺(千利休・与謝野晶子)
岩手・花巻(宮沢賢治)
長野と東京(五島慶太)
解説・佐藤弘夫シリーズ「アジアと芸術」(鳳書院):
第1弾 『水墨の詩』(傅益瑶)
第2弾 『傅益瑶作品集 一茶と芭蕉』(傅益瑶)
第3弾 『法華経の風景』(宍戸清孝/菅井理恵)
第4弾 『見えない日常』(木戸孝子)
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