『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第74回 正修止観章㉞

[3]「2. 広く解す」㉜

(9)十乗観法を明かす㉑

 ⑥破法遍(2)

 (4)従仮入空の破法遍①

 では、最初の従仮入空の破法遍の段について説明する。この段も「先に見仮従り空に入り、次に思仮従り空に入り、後に四門もて料簡す」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、660頁)とあるように、さらに三段に分かれる。仮を見仮と思仮に分けていることがわかる。

 ①見仮

 見仮については、

 見惑は体に附して生じ、還って能く体を障う。炎の空に依って空を動乱するが如く、夢は眠に因るも、夢は眠を昏(くら)ますに似たり。夢は若し息まずば、眼は覚むることを得ず。此の惑は除かざれば、体は顕わるることを得ず。然るに、見は則ち理を見ることにして、見は実に惑に非ず、理を見る時は、能く此の惑を断ず。解に従って名を得れば、名づけて見惑と為すのみ。(同前)

と説明されている。見惑は体(理)にくっついて生じ、かえって体(理)を妨げることができるとされる。そして、この惑が除かれなければ、体(理)はあらわれることができない。しかしながら、見は理を見ることであり、見は実に惑ではなく、理を見るときは、この惑を断ち切ることができる。「解に従って名を得」とは、理を見ることによって得られる理解によって断ち切られる惑に基づいて、見惑と名づけられるという意味であろう。
 さらに、『摩訶止観』では、見惑に単の四見、複の四見、具足の四見、無言の四見の四種があるとしている。『摩訶止観』の説明を紹介する。まず単の四見とは、有の見、無の見、亦有亦無の見、非有非無の見である。ここで、見惑に「八十八使」があることが説かれている。「八十八使」については、これまでも出たが、具体的な内容の説明はここでなされている。要点を示すと、有の見について、まず欲界の四諦に、三十二使がある。内訳としては、苦諦に十使(貪欲・瞋恚・愚痴・慢・疑・身見・辺見・邪見・見取見・戒取見)、集諦に七使(十使から身見・辺見・戒取見の三使を除く)、道諦に八使(十使から身見・辺見の二使を除く)、滅諦に七(十使から身見・辺見・戒取見の三使を除く)がある。
 次に色界の四諦に、二十八使がある。欲界の三十二使から、四諦それぞれの瞋恚を除くのである。次に無色界の四諦も色界の四諦と同様に、四諦それぞれの瞋恚を除くので、二十八使となる。これを合計すると、八十八使となるのである。
 そして、無の見、亦有亦無の見、非有非無の見の三つの見についても、それぞれ八十八使があると説かれている。さらに、外道の六十二見の一々の見に八十八使があることなどが説かれている。さらに、一根に好・悪・中間の三種があり、この好・悪・中間の三種のなかに、それぞれ苦の集まり(陰)と苦の集積(集)があるので六種となること、したがって、六根に三十六種を備えることになり、この三十六種を過去・現在・未来の三世にわたって区別すると、合わせて百八の煩悩があることになると述べている。
 次に複の四見とは、有有・有無見(有の有、有の無の見)、無有・無無見(無の有、無の無の見)、亦有亦無有・亦有亦無無見(亦有亦無の有、亦有亦無の無の見)(※1)、非有非無有・非有非無無見(非有非無の有、非有非無の無の見)をいう。
 次に具足の四見は複雑であるが、次のよう四つに分かれる。第一に有の見に四を具すことについて、有の有、有の無、有亦有亦の無、有非有非の無をいい、無の見に四を具すことについては、無の有、無の無、無の亦有亦無、無の非有非無をいい、亦有亦無の見に四を具すことについては、亦有亦無の有、亦有亦無の無、亦有亦無の亦有亦無、亦有亦無の非有非無をいい、非有非無の見に四を具すことについては、非有非無の有、非有非無の無、非有非無の亦有亦無、非有非無の非有非無をいう。
 最後に、絶言の見については、『摩訶止観』には、

 絶言の見とは、単の四見の外に一つの絶言の見、複の四句の外に一つの絶言の見、具足の四句の外に一つの絶言の見あり。一一の見に、皆な八十八使、六十二見、百八等を起こす。前に説けるが如し。是の如き等は、外道の法に約し、是の如き等の見を生ずるなり。(『摩訶止観』(Ⅱ)、666頁)

と述べている。これによれば、絶言の見(言葉を絶した誤った見解)は、単の四見、複の四見、具足の四見のほかに、それぞれ一つの絶言の見があるとされる。そして、一々の見にすべて八十八使、六十二見、百八煩悩などを生起させると述べている。以上の見の説明は、外道の法に焦点をあわせたものであると指摘されている。
 そして、仏法に焦点をあわせた見もあり、これらは三蔵教の四門の四見、通教の四門の四見、別教の四門の四見、円教の四門の四見といわれる。さらに、蔵教・通教・別教・円教の四種のなかのそれぞれ一種の四門のほかに、それぞれ絶言の見があるとされ、このように一々の見のなかに、それぞれ八十八使、六十二見、百八煩悩などを生起させると述べている。
 また、前述したように、見惑という名称は、ただ理を見ることによって得られる理解によって断ち切られる惑に基づいて名づけられるだけでなく、同様に当体(その本体)について名づけられることもあると指摘し、この場合、これを「仮」と呼ぶと明かしている。「仮」とは、虚妄で顛倒しているという意味である。したがって、この場合は、単の四仮、複の四仮、具足の四仮という表現になる。そして一々の仮にそれぞれ絶言の仮があることになる。仏法によると、さらに蔵教・通教・別教・円教の四教それぞれに単、複、具足、絶言の四仮があるので、十六仮があると指摘されている。(この項、つづく)

(注釈)
※1 『法華経文句輔正記』巻第九、「複の四見とは、有の有・有の無の見、無の有・無の無の見、亦有亦無の有・亦有亦無の無の見、非有非無の有・非有非無の無の見なり」(『新纂大日本続蔵経』28、788中12~14)の説明の方が理解しやすいので、これに基づく。『摩訶止観』の本文では、「亦有の有無・亦無の有無、非有の有無・非無の有無なり」(『摩訶止観』(Ⅱ)、664頁)と説明している。

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