【道場拝見】第11回 喜舎場塾田島道場(松林流)〈下〉

ジャーナリスト
柳原滋雄

無二の親友との思い出

 彼がいなかったら(空手を)始めていなかったかもしれないですね。

 田島一雄・教士8段がそう回想するのはすでに紹介した松林流宗家2代目、長嶺高兆(ながみね・たかよし 1945-2012)との出会いだ。

 中学卒業後、高校受験で浪人した際、「補習学級」(予備校のようなもの)で一緒になった。高兆は父親と同じ那覇商業高校にいったん入学したものの途中で辞め、那覇高校を受験したが失敗し、2浪の最中だった。その後、2人は新生高校となる県立小禄(おろく)高校の1期生として入学する。高兆は学校で空手クラブを創部し、田島氏はそこには入らなかったものの、高兆の父・将真の運営する長嶺空手道場に入門した。
 浪人時代に一緒に行動するなかで、街でしばしば高兆が喧嘩する姿を傍らで見てきた。

 そのころから非常にやんちゃでした。我々何人か男友達を引き連れて、ちょっと変な奴がいたらすぐに喧嘩をしかける。彼はまったく動じない。度胸がありました。レンガ造りの古い建物があったら〝試し割り〟と称してレンガブロックを蹴って柱を崩すこともありました。そうした破壊力をまざまざと見せられて魅了され、私も空手をやってみる気になったのです。

 田島氏は、高兆は組手が強かったと述懐する。

 私は何度も立ち合いますでしょ。道場で組手したときも、倒れて顔を踏まれて、気絶寸前になったこともありました。

ナイハンチをゆっくりとしたリズムで行う

 当時、長嶺将真は道場内での組手を厳しく禁じていたが、いないところではしばしば行われたという。
 卒業後、2人は東京の私立大学に進学。高兆は国士館大学に半年ほど通ったが、これも途中で辞めてしまった。そのまま沖縄に戻り、アメリカに空手留学、オハイオ州で松林流の道場を創設・運営した。
 その後も2人の関係は途切れることなくつづいた。喜舎場塾が立ち上げられ、田島氏はそちらに移って所属が2つに分かれる形となったが、高兆が主宰していた長嶺道場の黒帯研究会に田島氏は一人だけ呼ばれたという。2人の関係は幼馴染でもあり、技の研究を重ねる〝前向き〟な関係のままだった。
 高兆がアメリカから戻ると急に電話がかかり、呼び出されることも多かった。酒を交わしながら〝技談義〟になると、その場で立ち上がり、「こういう場合はどうする?」などと軽く手合わせすることもしばしば。もちろん相手を倒そうと組手をするわけでなく、寸止めレベルで技の掛け合いを試みるにすぎなかったが、田島氏が家に戻ると、拳を当てられた場所がアザだらけになっているのを発見して驚いたと振り返る――。

 脱力した状態で繰り出す技は、軽く出しても威力があるということをまざまざと感じさせられました。

 高兆はその後、父親と同じく那覇市議会議員を2期つとめたが、飲み歩く生活などがつづき、必然的に稽古量は減った。「本人の空手にとってはマイナスにしかならなかった」と議員になったことを田島氏は今でも残念がる。

流派の大同団結の道

相手に押さえてもらい、手刀を振り下ろせるかどうかを検証する。力対力では当然うまくいかない

 松林流は長嶺将真の没後、生前に後継指名された三羽烏の一人、田場兼靖(たば・けんせい 1933-2012)と、2代目高兆との間で法的な争いに発展した。空手界ではよく見られる流派内の分裂騒ぎだったが、喜舎場塾も独立しており、大きく3つの流れが並立する事態となった。
 田島氏はかつて水面下で松林流の大同団結を志して動いたこともある。高兆をいい意味で後ろから支える意図があったというが、結果的にうまくいかなかった。

 松林流は分裂したが、空手の武術性はむしろ分裂した側に色濃く残る。田場の会派と、三羽烏のもう一人の島正雄(しま・まさお 1933-2003)の流れと、さらに喜舎場塾と、武術的な要素はすべからく周辺に集まった。それらを再度まとめ上げるのは無謀な試みに映るが、それでも本来の沖縄空手は技の向上を願い、気の合う仲間同士で稽古するのがもともとのあり方とされる。組織的な合流をめざすより、同門出身者の関係を生かした〝技術交流〟の姿勢はけっして意味のないこととは思われない。
 長嶺将真が晩年、地元紙に遺した新聞記事を読んで田島氏はこう語る。

 長嶺先生の空手の見識は本物だったと改めて感じます。私たちが行っている〝抜き〟の技術、そういうことがわかっていないと書けないような書き方をされていました。例え先生自身に〝掛け試し〟で戦った武人としての履歴はなくとも、武術家としての確かな『目』を備えていたことは明らかです。

 その上で次のように指摘する。

 集団で合同稽古するとどうしてもスポーツ的な〝居着く〟空手になってしまいがちですが、居着いた空手なら本土の松濤館空手にはかなわない。それでは沖縄空手が〝亜流〟になってしまいかねません。

 護身目的の武術としてスタートした沖縄空手を考える上では本質を突いた指摘にも思える。(文中敬称略)

前列左から2人目が道場主の田島一雄・教士8段

※沖縄現地の空手道場を、武術的要素を加味して随時紹介していきます。

シリーズ【沖縄伝統空手のいま 道場拝見】:
①沖縄空手の名門道場 究道館(小林流)〈上〉 〈下〉
②戦い続ける実践者 沖拳会(沖縄拳法)〈上〉 〈中〉 〈下〉
③沖縄空手の名門道場 明武舘(剛柔流)〈上〉 〈下〉
④喜舎場塾田島道場(松林流)〈上〉 〈中〉 〈下〉

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やなぎはら・しげお●1965年生まれ、佐賀県出身。早稲田大学卒業後、編集プロダクション勤務、政党機関紙記者などを経て、1997年からフリーのジャーナリスト。東京都在住。