寄る辺のない不穏な空気
磯﨑憲一郎(いそざき・けんいちろう)著/第141回芥川賞受賞作(2009年上半期)
挑戦的な作風
磯﨑憲一郎の「終の住処」。2度目の芥川賞候補で受賞。当時44歳。
小説は、何をどのように書いても自由なわけだが、ある程度の作法というものはあるはずだ。そうしたものを壊して新たな作法で書くことは、小説の新たなおもしろさを開く可能性を秘めている反面、失敗すれば理解不能にもなりかねない。「終の住処」は、そうした挑戦的な試みに満ちているような印象を受けた。
まず、時間軸が長い。結婚をして、子供が生まれて、何人もの女性と不倫を重ね、家を建てて、老いを目前にするまでの長い人生の時間を、わずか原稿用紙110枚程度で描いている。一貫して流れているのは、家族、なかんずく妻という他人との理解しがたい境である。
また、そこで起きるさまざまな出来事には連続性がない。AがあったからBがあってCとなるといった、因果関係に基づいた連続性がないので、個々の出来事が全く無関係な無機質な独立した出来事のように見えるのだ。
しかも、そこで起きる出来事は、一見ありそうだけれども実際にはあり得ない事柄が多い。たとえば、近所の散歩道にある沼の上を自衛隊のヘリコプターが飛び回り、大事な取引先の係長とはたかが腕相撲が原因で仲違いとなり、かわいいはずの赤ん坊は彼の手から常に逃げ出し、月はいつも満月のまま。極めつけは、妻とは取り立てて理由のないまま11年もの間、口をきいていない。夢の中の記憶なのか、自分の想念のデフォルメなのかと思ってしまうような歪んだ非現実的な感覚を文章から感じる。
そして、それらの出来事が時間や因果の流れの中で繋がりながら存在するのではなく、突然、脈絡もなく出てくる。だから、主人公の意思というものが見えない。人間の意思を超えて、出来事が勝手に主人公の身に降りかかり、それに対して主人公はさほど疑問を持つことも抵抗することもなく、ましてや自分の運命を自分の意思で切り開こうというような能動的な姿勢も希薄だ。そのあまりにも受動的な姿勢が、人間というものの存在の危うさを冷たい感覚で伝えてくる。
何か寄る辺のない不穏な空気が、作品全体の底流を流れているのだ。
選考委員の評価が分かれる
こうしたある種挑戦的な作風なので、選考委員の評価は大きく割れていて、さらに面白いことには、各選考委員がかなりのエネルギーを費やして、この作品が一体何なのかを解説しているのである。
まず評価が高かった選考委員のコメントだ。
山田詠美は、
過去が、まるでゾンビのように立ち上がり、絡まり、蠢いて、主人公を終の住処に追い詰めていくようで恐ろしかった。(中略)大人の企みの交錯するこの作品以外に私の推すべきものはなかった
と評価。
小川洋子は、
あらゆる出来事は、まるであらかじめ定められていたかのように起こるべくして起こる。人間の人格など何の役にも立たない。その当然の摂理が描かれると、こんなにも恐ろしいものなのか、と立ちすくむ思いがする。人間を描くという不確かな視点を拒否し、ただ時間に映し出される事象のみを書き写す試みが、独特のいびつさを生んでいる。貴重な才能の出現を祝福したい
と評価。
黒井千次は、
固くごつごつとした物体を積み上げることによって出現した、構築物のごとき小説である。そこには、流れる時間ではなく、堰き止められた時間が層をなして重なっている。(中略)あり得ないような出来事がしかし違和感もなく受け入れられてしまうのは、堰き止められた時間の重なりの中に特異な世界が作り上げられているからだろう
。
ここで言う「堰き止められた時間」というのは、連続性のない出来事が単体でゴロゴロと異様な姿で描かれているために、時間の流れが見えないということだ。
主人公の人物像が見えない
反して、否定的な評価をした選考委員の共通認識は、主人公の人物像が見えないという点である。
村上龍は、
感情移入できなかった。現代を知的に象徴しているかのように見えるが、作者の意図や計算が透けて見えて、わたしはいくつかの死語となった言葉を連想しただけだった。ペダンチック、ハイブロウといった、今となってはジョークとしか思えない死語である
といい、宮本輝は、
観念というよりも屁理屈に近い主人公の思考はまことに得意勝手で、鼻もちならないペダルチストここにあり、といった反発すら感じたが、磯﨑氏はこれから一皮も二皮も剝ける可能性を感じさせる
と述べている。
そして高樹のぶ子は、
小説が書かれる目的は、「人間に触れる」ことだと思う。リアリズム非リアリズムを問わず、形式も問わないが、ただその一点だけは求める。勿論ナメクジと薔薇だけを描いてもそれは可能だ。読み終えて人間に触れた実感が無いか希薄なときは、作品そのものが記憶に残らない。記憶に残る作品が優れているかどうかは一概には言えないが、記憶に残らないものは駄目。読者に記憶されるには「説明を超える、あるいは、説明を必要としないシーン」が必要になる
選考委員がそれぞれある意味むきになってこの作品を論評している点に、評価は別れるにしても、この作品のすごさがあるような気がする。
「芥川賞を読む」:
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