『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第71回 正修止観章㉛

[3]「2. 広く解す」㉙

(9)十乗観法を明かす⑱

 ⑥別して安心を明かす(1)

 ここから、別して安心を明かす段である。では、止観によって心を法性に安んじることがうまくいかない場合はどうすればよいのであろうか。『摩訶止観』には、「若し倶に安んずることを得ずば、当に復た云何んがすべき」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、608頁)と、問題提起をしている。うまく行かない様子については、「復た之れを止(とど)むと雖も、馳すること颺炎(かげろう)よりも疾(と)く、復た之れを観ずと雖も、闇(くら)きこと漆・墨に逾(こ)えたり」(同前)と述べている。私たちの心が御しがたいことを踏まえて、心を静止させようとしても、吹き上がる炎よりも早く走り去り、これを観察しようとしても、漆と墨よりも暗闇であるので観察できないと述べている。
 次に、具体的に心を安んじる方法について、他人に教えること(教他)と自分で行なうこと(自行)の二種に分ける。はじめに、前者の他人に教えることについては、さらに聖人の師が教える場合と凡夫の師が教える場合の二種に分けている。

(1)教他の聖師

 聖人の師については、

 聖師は、慧眼の力有りて、法薬に明らかにして、法眼の力有りて、病障を識り、化道の力有りて、病に応じ薬を授け、服行することを得しむ……仏の世を去りて後、是の如きの師は甚だ得ること難しと為す。盲亀(もうき)は何に由って上って浮孔(ふく)に値わん。芥(からしな)を墜(お)とすに、豈に下って針鋒(しんほう)を貫くことを得んや。難し難し、云云。(『摩訶止観』(Ⅱ)、610頁)

と説明している。聖人の師は、智慧の眼の力を持って法という薬に詳しく、法の眼の力を持って病という障害を認識し、人々を教え導く力を持って病に応じて薬を授け、服用することができるようにさせるといわれる。しかし、このような立派な師は、仏が世を去ってからは得難いのである。あたかも目の見えない亀が海底から浮き上って浮いている木の孔に出合うことのように難しく、また芥子を針の先に落下させて針の孔を貫くことのように難しいのである。ちなみに、この比喩は、『涅槃経』に出るものである(※1)

(2)教他の凡師

 次に、凡夫の師について説明しているが、この説明はかなり詳しい。その理由について、池田魯参氏は、「凡師の次元に下げて説くのは、智顗自身の謙譲の表現というよりは、この段の後の方で専ら観を勧めたり、専ら止を勧めたりしている当時の禅師たちの指導法の誤りを指摘しているように、このような凡俗の仏道修行者を広く点検しようとしているのである」(※2)と指摘している。
 さて、凡夫の師については、聖人の師と違って、智慧の眼の力、法の眼の力、人々を教え導く力の三種の力がないけれども、また教化することができると述べられている。そして、聖人の師が他人を教えることについては論ぜず、凡夫の師が他人に教える場合について説明している。まず、この他人の機根を、信行の人と法行の人の二種に分けている。この信行と法行の定義については、

 薩婆多(さつばた)に明かさく、「此の二人は、位、見道に在り。聞に因って入る者は是れ信行と為し、思に因って入る者は是れ法行と為す」と。曇無徳(どんむとく)に云わく、「位は方便に在り、自ら法を見ること少なく、聞の力に憑(よ)ること多きは、後の時、要(かなら)ず須らく法を聞きて悟ることを得べきを、名づけて信行と為す。聞の力に憑ること少なく、自ら法を見ること多きは、後の時、要ず須らく思惟して悟ることを得べきを、名づけて法行と為す」と。(『摩訶止観』(Ⅱ)、612頁)

と説明している。薩婆多部(説一切有部)の定義では、信行・法行のどちらも見道の位にあるとされている。見道は、小乗の聖者の位で、十六心によって三界の四諦を順次に観ずるなかで、前の十五心をいう。そして、法を聞くことによって入る者が信行であり、法を思惟することによって入る者が法行であるとされている。曇無徳部(法蔵部)の定義(※3)では、見道に入る前の四善根(煖・頂・忍・世第一法)の位であるとされる。自分で法を見ることがなく、聞く力に依存することが多く、後になって法を聞いて覚りを得る必要のある者を信行と名づけ、聞く力に依存することが少なく、自分で法を見ることが多く、後になって思惟して覚りを得る必要のある者を、法行と名づけるとされる。
 二種の定義が提示されているが、基本的には、信行は法を聞くことに力点があり、法行は法を思惟することに力点がある。そして、一般的には、信行が鈍根で、法行が利根とされる。しかし、『摩訶止観』では、もし見道において、無相の心の優れたものが一たび生じれば、そのまま真実であるので、信行と法行の区別を判定することはできないと述べている。そして、薩婆多部(毘曇有宗の立場)は修行の完成に基づいて信行・法行を区別し、曇無徳部(『成実論』の立場)は修行者の根性(能力・性質)に基づいて信行・法行を区別しており、それぞれの説にそれぞれの根拠があり、たがいに非難することはできないと述べている。

(3)信行・法行の利鈍の区別

 さらに、『摩訶止観』では、信行が鈍根で、法行が利根とされる一般的な考えを変えて、複数のあり方を提示している。そもそも、長い劫にわたって法を聞いて学び、長い劫にわたって坐禅することを、それぞれ信行・法行の種子とすることができる、幾世にもわたって種子が深く浸みこむと、根性(能力・性質)となり、それぞれ法を聞くこと、思惟することにおいて悟るとされる。
 信行・法行の根の利鈍については、第一のあり方として、法行は利とされ、内に自分で法を観察するからであるといわれる。信行は鈍とされ、他によって法を聞くからであるとされる。さらに第二のあり方として、信行は利であり、一回聞いてすぐに悟るからであるとされる。法行は鈍であり、さまざまな法を次から次に観察するからであるとされる。第三のあり方として、信行と法行がそれぞれ利でもあり、鈍でもあるとされる。どういうことかというと、信行の人は聞慧が利で修慧が鈍であり、法行の人は修慧が利で聞慧が鈍であるからである。(この項、つづく)

(注釈)
※1 『南本涅槃経』巻第二、純陀品、「芥子をば針の鋒に投ず。仏の出ずるは是れより難し……世に生まれて人と為るは難しく、仏の世に値うも亦た難し。猶お大海の中の盲亀、浮孔に遇うが如し」(大正12, 612中13-18)を参照。「亀」については、類似の比喩が、『法華経』妙莊厳王本事品にも、「又た一眼の亀の浮木の孔に値うが如し」(大正9, 60上29-b1)と出る。
※2 池田魯参『詳解 摩訶止観 地巻(研究註釈篇)』(大蔵出版、1997年)116頁を参照。
※3 慧澄癡空の『講義』には「薩婆多は有門なり。曇無徳は、南山は『成実論』を以て彼の部に対するに、義として空門に当たる」と述べ、曇無徳の定義を『成実論』の説に対応させている。

(連載)『摩訶止観』入門:
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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。