第70回 正修止観章㉚
[3]「2. 広く解す」㉘
(9)十乗観法を明かす⑰
今回は、十乗観法の第三「善巧安心」(巧安止観)について紹介する。詳しく表現すると「善巧安心止観」となる。ただし、「善巧安心」は『摩訶止観』に六回出、「巧安止観」は一回出るが、「善巧安心止観」は『摩訶止観』には出ず、宋代以降の天台文献に出る(※1)。
『摩訶止観』には、「善巧安心」の段の冒頭に、その定義について、
三に善巧安心とは、善く止観を以て法性に安んずるなり。上に深く不思議境の淵奥(えんおう)、微密(みみつ)なるに達し、博(ひろ)く慈悲を運びて、亘蓋(こうがい)すること此の若し。須らく行じて願を塡(み)つべし。行は即ち止観なり。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、606頁)
と述べている。つまり、補って表現すると、「巧みに止観によって[心を]法性に安んじる」ことである。不思議境が奥深く秘密であることを深く理解し(十乗観法の第一の観不思議境に相当)、広く慈悲を動かしてくまなく衆生を覆いかばうのである(十乗観法の第二の起慈悲心に相当)。この衆生を守るという誓願を止観という修行によって実現する必要があるのである。
湛然(たんねん)によれば、善巧安心の段について、総じて安心を明かす段と別して安心を明かす段の二段に分けている。
⑤総じて安心を明かす
『摩訶止観』には、心と法性の関係について、次のように述べられている。
無明・癡惑は本と是れ法性なり。癡迷を以ての故に、法性は変じて無明と作り、諸の顚倒、善・不善等を起こす。寒の来たって水を結び、変じて堅き氷と作るが如く、又た、眠の来たって心を変じ、種種の夢有るが如し。今当に諸の顚倒は即ち是れ法性にして、一ならず異ならずと体すべし。顚倒は起滅すること、旋火輪の如くなりと雖も、顚倒は起滅を信ぜず、唯だ此の心は但だ是れ法性なりと信ずるのみ。起は是れ法性の起にして、滅は是れ法性の滅なり。体は、其の実、起滅せざるに、妄りに起滅すと謂う。秖だ妄想を指すに、悉ごとく是れ法性にして、法性を以て法性に繋(か)け、法性を以て法性を念ずれば、常に是れ法性にして、法性ならざる時無し。体達は既に成ずれば、妄想を得ず、亦た法性を得ず、源に還り本に返れば、法界は俱に寂なり。是れ名づけて止と為す。此の如く止む時、上来の一切の流転は皆な止む。(『摩訶止観』(Ⅱ)、606-607頁)
と。心を法性に安んじるという場合の凡夫の心は、実際には無明、愚癡の惑に覆われているのである。したがって、この段には、そのような心と法性の関係が説かれていることになる。無明、愚癡の惑はもともと法性であるとされる。つまり、単純化していうと、無明即法性ということになる。そうはいっても、私たちは現実には多くの倒錯した考えを持ち、善悪などの行為を行なっている。その理由は、愚癡の迷いがあるので、法性が無明に変化し、そのことによって、そのような現実を招いているとされる。このことを、寒さによって水が氷に変化することや、眠りによって心がさまざまな夢を見ることにたとえている。
私たちが持っている多くの倒錯した考えは、法性が無明に変化することによって生じたものであるので、もともと法性であるともいうことができる。つまり、倒錯と法性の二つのものは、本体として同一である面もあり、現象面として二つのものがあるので相違する面もあることになる。
私たちの倒錯した考えが生起、消滅することは、現象面のことであり、この心こそ法性であることを信じなければならない。倒錯した考えが生起するといっても法性が生起するのであり、倒錯した考えが消滅するといっても法性が消滅するのである。つまり、体は実際には生起、消滅しないのに、誤って生起、消滅すると思い込むだけなのである。
したがって、誤った想念があっても、その本質はすべて法性である。このような深い理解が完成すると、誤った想念も実体として捉えられず(空であるという意味)、法性も実体として捉えられず、根源に帰り根本に返れば、法界はすべて静寂である。これを止観のなかの止と名づけるのである。つまり、この段は止によって心を法性に安んじることを説明したものである。
では、止観のなかの観によって心を法性に安んじることについてはどうであろうか。次のように述べられる。
観とは、無明の心は、上は法性に等しく、本来皆な空にして、下は一切の妄想・善悪に等しく、皆な虚空の如く、二無く別無しと観察す……法界は洞朗(どうろう)として咸(ことごと)く皆な大いに明らかなること、之れを名づけて観と為す。(『摩訶止観』(Ⅱ)、607-608頁)
と。観とは、無明の心が上は法性に等しくもともと空であり、また下はすべての誤った想念、善悪に等しくみな虚空のようなものであり、無明と法性は二つの異なったものがないと観察することであると定義されている。末尾には、法界がからっと澄んでいて、みな非常に明るいことを、観と名づけるとされる。
このように、止と観によって心を法性に安んじることについて説明した後に、止と観の関係について、
止は秖(た)だ是れ智にして、智は秖だ是れ止なり。不動の止は秖だ是れ不動の智にして、不動の智は秖だ是れ不動の止なり。不動の智もて法性を照らすは、即ち是れ観智もて安んずることを得。亦た是れ止もて安んず。不動は法性に於いて相応するは、即ち是れ止もて安んずることにして、亦た是れ観もて安んずることにして、二無く別無し。(『摩訶止観』(Ⅱ)、608頁)
と説明している。ここに出る「智」は、智によって観が成立するので、とりあえずは観と同義であると考えてよい。「観智」という表現も出ているが、観察する智慧という意味である。この段では、止はただ智(観)にほかならず、智(観)はただ止にほかならないと述べ、不動の智(観)によって法性を照らすことは、観智(観察する智慧)によって心を法性に安んじることができることであり、また止によって心を法性に安んじることでもある。不動の智が法性において法性と結びつくことは、止によって心を法性に安んじることであり、また観によって心を法性に安んじることでもあり、二つの異なったものはないと指摘している。止と観の一体不離の関係を指摘するとともに、止観によって心を法性に安んじることを強調しているのである。
(注釈)
※1 たとえば諦観『天台四教儀』に、「三善巧安心止観」(大正46,780下8)とあるのを参照。
(連載)『摩訶止観』入門:
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