十代のころにつたない抒情詩を書いていた。淡い恋心を抱いた女性への思いなどを綴る。いまでもその一節は思い出せるけれど、恥ずかしいから文字にはしない。顔から火が出る、という。僕の場合、苦笑いだ。よくあんなものを書いていたな、とおもう。
中学生のとき、クラスメートの男子で、やはり詩を書く人物を見つけた。たがいに誰にも見せずに書いていたのだが、何をきっかけにしてだったか、ガラクタのような言葉の詰まったノートを見せ合った。
僕は、彼の詩をいい、とおもった。彼は、僕のノートを見て、「君は天才だ!」といった。そんなはずがない。本当にそんな才能があれば、いまごろ詩人として大成している。僕も彼も幼稚だったのだ。
その後も何度かノートを交換して、新作を見せ合った。幼稚は幼稚なりに、小さな詩のコミュニティをつくって、刺戟しあいながら、励ましあいながら、詩を書き続けていたのだ。
その彼が転校して、僕はなんとなく詩を書かなくなった。もともとひとりで書いていたのだから、ひっそり書き続けてもいいはずだけれど、読者を失ったから張り合いがなくなったのだとおもう。
『シュテファン・バチウ ある亡命詩人の生涯と海を越えた歌』を読んで、詩人にとってコミュニティが大切であることをあらためて知った。
シュテファン・バチウの名を知っている人は、よほど詩を好きな人でも、まず、いないだろう。もちろん僕は、この本を読むまで知らなかった。ルーマニアに生まれて、十代のころから詩人として頭角を現し、詩人、ジャーナリスト、外交官として活動する。
ところが、やがて政治的な危機に見舞われ、自身の出版した何冊かの詩集だけをたずさえて、伴侶とともに祖国を逃れた。着いたのはスイスのベルン。しかしこの地も安全ではなくなってブラジルへ亡命する。国外でもバチウは祖国の秘密警察に監視されていた。
詩人が行き着いて、終の棲家としたのはハワイだった。バチウはこの地で、『ラテンアメリカ詩撰集』、『ラテンアメリカ・シュルレアリスム詩撰集』を出版し、『MELE 詩の国際便』を創刊する(MELEは、ハワイ語で、「歌」「詩」「祈り」を意味する)。
バチウは、小冊子を手作りした。自分の手で印刷機を使って印刷し、装丁は学生たちの手も借りて、200部から300部ほどが刷られた。いまならZINEと呼ばれるこの冊子は、1965年から詩人の死の翌年1994年まで発行され、ノーベル文学賞を受けたオクタビオ・パスなどが寄稿している。
〝詩の国際便〟という副題が示すように、『MELE』の原稿は、ルーマニア語、スペイン語、ポルトガル語、ハワイ語、サモア語、ベトナム語、カタルーニャ語など、30種類ほどの言語で、翻訳もされないまま掲載され、バチウ自身の手で世界中に詩の手紙として届けられた。小さな、しかし、国際的な詩のコミュニティがつくられたのだ。
バチウは彼の半身だった伴侶を失い、少年のころから芳しくなかった眼の働きは衰えてほとんど視力を奪われ、パーキンソン病を患った。そのなかで、彼はルーマニアの伝統的な短詩Catrenという四行詩を書くようになる。本書によると――
最晩年、視力をほとんど失っていたバチウの部屋は、四行詩を書き記した紙で埋もれていたという
この四行詩はのちに、『千を超える四行(カト)詩(レネ)』としてホノルルで刊行された。最後の四行詩の番号は1042だった。
祖国ルーマニアで、バチウの文業は、長いあいだ政府によって封じられていた。そのせいで、詩人としての彼は、いまも無名である。彼が書き続けられたのは、『MELE』があったからではないかとおもう。みずからつくりあげた「詩の親密圏」が詩人を生かした。
詩友、という言い方をするのは、詩人がそういう存在だからだろう。
おすすめの本:
『シュテファン・バチウ ある亡命詩人の生涯と海を越えた歌』(阪本佳郎著/コトニ社)
「本の楽園」は、今回第200回をもって連載は終了いたします。
この連載は『本の楽園1』(第三文明e文庫)として電子版で発売されています。今後、第2巻以降も発刊される予定です。
2015年12月の連載開始から約9年もの長きにわたり、ご愛読いただき誠にありがとうございました。
WEB第三文明 編集部