第69回 正修止観章㉙
[3]「2. 広く解す」㉗
(9)十乗観法を明かす⑯
④慈悲心を起こす(2)
次に、煩悩無数誓願断については、煩悩は実体的な存在をもたないことを知っているけれども、その実体的な存在をもたない煩悩を断ち切ることを誓い、煩悩には限度のない(無限、無量の意味)ことを知っているけれども、その限度のない煩悩を断ち切り、煩悩は実相と同一であると知っているけれども、その実相と同一である煩悩を断ち切ると説明している。衆生と煩悩について、それぞれ空、仮、中のあり方を踏まえて三重に説明しているようである。
このような衆生を救うこと、煩悩を断ち切ることにも、周到な注意、つまり空、仮、中に配慮したあり方が要請されるのである。『摩訶止観』には、
何となれば、若し但だ苦の因を抜きて苦の果を抜かずば、此の誓いは毒を雑(まじ)う。故に須らく空を観ずべし。若し偏えに空を観ぜば、則ち衆生の度す可きを見ず。是れ空に著する者と名づく。諸仏の化せざる所なり。若し偏えに衆生の度す可きを見ば、即ち愛・見の大悲に堕す。解脱の道に非ず、云云。今は則ち毒に非ず、偽に非ず。故に名づけて真と為す。空辺に非ず、有辺に非ず。故に名づけて正と為す。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、602頁)
とある。苦の因(見思惑)を除くだけで苦の果(分段の生死)を除かない蔵教の菩薩は空を観察する必要があるといわれる(この説明は、慧澄癡空『講義』を参照した)。ただし、空だけを観察するならば、救済するべき衆生のあるのを見なくなり、これは空に執着する者と名づけられる。逆に救済すべき衆生だけを見れば、すぐに愛煩悩と見煩悩に汚された大悲に堕落し、解脱の道ではなくなると説明している。
そして、毒でもなく偽りでもないので「真」と名づけ、空という極端でもなく、有という極端でもないので「正」と名づけると述べ、「真正」の意味を示している。
次に、「大慈」を起こすことについては、『摩訶止観』に、
又た、不可思議の心の、一楽心は一切楽心なるを識る。我れ及び衆生は、昔、楽を求むと雖も、楽の因を知らず。瓦礫を執って、如意珠と謂い、妄りに蛍光を指して、呼びて日月と為すが如し。今方(まさ)に始めて解す。故に大慈を起こし、両つの誓願を興す。謂わく、法門無量誓願知、無上仏道誓願成なり。(『摩訶止観』(Ⅱ)、604頁)
とある。「大悲」の説明に「一苦は一切苦なり」が出てきたのと対照的に、「大慈」の場合は、「一楽心は一切楽心なり」が出ている。これは、慈悲の字義解釈として、慈は与楽、悲は抜苦といわれることに基づいている。昔は楽を求めたけれども、楽の原因(『輔行』には、諸仏の法を求めることを究竟の楽の因とすると説明している)を知らなかったとされ、それはあたかも瓦礫を手に取って如意珠と思い込んだり、蛍の光を誤って指さして日月と呼んだりするようなものであった。今、はじめて楽の原因を理解した。そこで、大慈を生じて、法門無量誓願知(無量の法門を知ろうとする誓願)と無上仏道誓願成(無上の仏道を完成しようとする誓願)の二つの誓願を立てるといわれる。この誓願については、
法門は永寂(ようじゃく)にして空の如しと知ると雖も、永寂を修行せんことを誓願す。菩提は無所有なりと知ると雖も、無所有の中、吾れは故(ことさら)に之れを求む。法門は空無所有の如しと知ると雖も、画繢(がかい)して虚空を荘厳せんことを誓願す。仏道は成・所成に非ざることを知ると雖も、虚空の中に樹を種えて、華果(けか)を得しむるが如し。法門、及び仏果は、修に非ず不修に非ず、証に非ず得に非ずと知ると雖も、証得する所無きを以て、而も証し而も得。是れ偽に非ず毒に非ざるを、名づけて真と為し、空に非ず見・愛に非ざるを、名づけて正と為す。(『摩訶止観』(Ⅱ)、604頁)
と述べられている。法門無量誓願知については、空のように永遠に静寂であると知っているけれども、永遠の静寂である法門を修行しようと誓願し、空のように実体的な存在を持たないと知っているけれども、虚空を縫い取りして装飾しようと誓願すると述べている。前の説明は空の側面を指摘したものであり、後の説明は仮の側面を指摘したものである。
無上仏道誓願成については、菩提は実体的な存在をもたないことを知っているけれども、実体的な存在を持たないなかで、私はことさらに菩提を求め、仏道は完成するものでも完成されるものでもないと知っているけれども、あたかも虚空に樹林を植えて華や果実を得るようにさせるようなものであると述べている。前の説明は空の側面を指摘したものであり、後の説明は仮の側面を指摘したものである。
虚空に樹林を植えるという表現が見られるが、これは『思益梵天所問経』巻第二、難問品、「譬えば樹有りて地に依らず、虚空の中に在りて、根茎・枝葉・華果を現ずるは、甚だ希有と為すが如し」(大正15、42下12~13)、『大智度論』巻第二十八、「譬えば人の樹を種うるに、地に依らずして、其の根茎・枝葉を得、其の果実を成ぜんと欲するも、是れ得可きこと難きが如し」(大正25、267上19~21)に基づくものであろう。
このように、空と仮の側面については、法門と仏道について別々に説明されているが、中道の側面については、引用文にあるように、まとめて表現されている。つまり、法門や仏果は、修めるものでも修めないものでもなく、法門を証するものでも得るものでもないことを知るけれども、証得するものがないことによって仏果を証得するというものである。
以上が、偽でも毒でもないものを「真」と名づけ、空でも見煩悩・愛煩悩でもないものを「正」と名づけると述べて、「真正」の定義を提示している。
最後に、この段の結論として、『摩訶止観』には、
此の如き慈悲誓願と不可思議の境智とは、前に非ず後に非ず、同時に倶に起こる。慈悲は即ち智慧にして、智慧は即ち慈悲なり。無縁無念にして、普く一切を覆い、任運に苦を抜き、自然に楽を与う。毒害に同じからず、但空に同じからず、愛・見に同じからず。是れ真正に心を菩提に発する義と名づく。自ら己を悲しみ、衆生を悲しむ義は、皆な上に説けるが如し。観心は解す可し。(『摩訶止観』(Ⅱ)、604-606頁)
と述べられている。ここでは、慈悲に基づく誓願と不可思議の境智(対象界とそれを観察する智慧)は、時間的に前後の関係ではなく、同時にともに生起すると説明している。つまり、不可思議の境智のあるところ、同時に慈悲に基づく誓願が成立することを指摘しているのであろう。そこで、慈悲は智慧であり、智慧は慈悲であると、両者の一体不離の関係を指摘している。
このような慈悲は、「無縁無念」、つまり思慮分別を越えて、くまなく一切を覆い、自然のままに苦を抜き、自然に楽を与えることである。特定のものを認識の対象とすることがないので、一切に普遍的なあり方が可能となることを指摘したものであろう。最後に、害毒とも同じではなく、空だけの立場とも同じではなく、愛煩悩・見煩悩とも同じではないとあって、「真正」の定義を示している。以上で、「発真正菩提心」の説明を終える。
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