芥川賞を読む 第45回 『ポトスライムの舟』津村記久子

文筆家
水上修一

ありふれた生活と人間に対する繊細で温かみのある目線

津村記久子(つむら・きくこ)著/第140回芥川賞受賞作(2008年下半期)

ありふれた日常から掬いだすもの

 津村記久子は、平成17年に「マンイーター」で太宰治賞を受賞して、その3年後に「ポトスライムの舟」で芥川賞を受賞。当時30歳。その後、川端康成文学賞、紫式部文学賞など多くの文学賞を受賞し、昨年は谷崎潤一郎賞を受賞するなど息長く活躍を続けている。選考委員の小川洋子が「津村さんはこれからどんどん書いてゆくだろう。それは間違いないことであるし、一番大事なことである」と述べた通りになった。
 受賞作の「ポトスライムの舟」の主人公は、大学卒業後に入社した会社をモラハラで辞めざるをえず、現在は契約社員として町の工場で働く29歳の女性。母と2人、古い民家で慎ましやかに暮らす。薄給生活のなかでひたすら生活のために働くのだが、その中で見つけた仕事のモチベーションとなったのがクルーズ船の世界一周旅行。その費用は163万円。それは、1年間、工場で働いて得る金額とちょうど同じ額。その額を貯めることを夢見ながら生活を切り詰めて暮らす日々。そこに、それぞれ異なる境遇の同級生3人との交流を織り込みながら描いていく。
 出てくるシーンに特別なものは何もない。離婚を決意した友人とその娘を一時的に居候させた程度のことが特別な出来事で、あとは誰もが経験するような日常の風景が描かれているだけだ。にもかかわらず多くの選考委員が高い評価を与えている。
 宮本輝はこうだ。

 私たちの周りの大方を占める、つつましく生きている女性たちの、そのときどきのささやかな縁によって揺れ動く心というものが、作為的ではないストーリーによってよく描けている。大仕掛けではない小説だけに、機微のうねりを活写する手腕の裏には、まだ三十歳の作者が内蔵する世界の豊かさを感じざるを得ない

 物語を面白くするために、いかにも作為的なストーリーを無理やり詰め込むことで、違和感が生じ破綻するケースはよくあるわけだが、この作品にはそうしたものがない。日常生活が当たり前に自然に流れるように、物語もごく自然に流れていく。
 けれども、こうした手法で読み手の琴線にふれる物語を描くのは難しい。そこには、ありふれた生活と人間に対する繊細で温かみのある目線がないと、描くものが読者には見えてこない。また、見過ごしてしまいそうなささやかな日常の中に、書くに値する何かを感じ取ることのできる力がなければ、こうした小説は到底書けないだろう。それこそが宮本輝の言う「まだ三十歳の作者が内蔵する世界の豊かさ」ということなのだろう。なお、石原慎太郎は選評で「無劇性の劇」とこの作品を評価した。

さまざまなタイプの作家

 他の選考委員の評価の点も同様だった。黒井千次はこう述べる。

 とりわけ大きな出来事が起るわけでもないのに、澄んだ水が正面から勢いよくぶつかって来るような読後感が生まれるのは、奈良にある築五十年の古い家に母親と暮す主人公の日々が、確かな筆遣いで捉えられているからだろう。(中略)二十九歳から三十歳になろうとする現代女性の結婚や離婚、仕事や家族達の様相がくっきりと浮かび上がる作品となった

 多くの選考委員が推す中で積極的に推さなかったのが村上龍だった。

 よく書けていると思ったので受賞には反対しなかったが、推さなかった。コントロールできる世界だけを描いていると思ったからだ。(中略)作家はコントロールできそうにもないものを何とかコントロールしようという意思を持たなければならないのではないか、わたしは個人的にそう思っている

「コントロールする」というのは、つまり、題材や小説の中に織り込むネタが自分の手に負えないほど大きくて、それでも描こうとする何かのために、それらをどう扱うべきなのか、作家自身が悩みながら筆を進めるということだろう。
 言わんとするところは分かるのだが、そもそも津村記久子という作家が、表現者として追求しているものはそういうものではなく、石原慎太郎が言った「無劇性」のなかにある微かな光なのだという気がする。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』 第13回『おでるでく』 第14回『この人の閾(いき)』 第15回『豚の報い』 第16回 『蛇を踏む』 第17回『家族シネマ』 第18回『海峡の光』 第19回『水滴』 第20回『ゲルマニウムの夜』 第21回『ブエノスアイレス午前零時』 第22回『日蝕』 第23回『蔭の棲みか』 第24回『夏の約束』 第25回『きれぎれ』 第26回『花腐し』 第27回『聖水』 第28回『熊の敷石』 第29回『中陰の花』 第30回『猛スピードで母は』 第31回『パーク・ライフ』 第32回『しょっぱいドライブ』 第33回『ハリガネムシ』 第34回『蛇にピアス』 第35回『蹴りたい背中』 第36回『介護入門』 第37回『グランドフィナーレ』 第38回 『土の中の子供』 第39回『沖で待つ』 第40回『八月の路上に捨てる』 第41回『ひとり日和』 第42回『アサッテの人』 第43回『乳と卵』 第44回『時が滲む朝』 第45回『ポトスライムの舟』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。