『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第67回 正修止観章㉗

[3]「2. 広く解す」㉕

(9)十乗観法を明かす⑭

 ③不可思議境とは何か(12)

 「不可思議境を明かす」段は、「総じて理境を明かす」、「自行の境を明かす」、「化他の境を明かす」、「略して自他事理を結し以て三諦を成ず」、「譬を挙げて自他等を譬う」、「境の功能を明かす」、「諸法を収摂し以て観境に入る」の七段に分かれるが、今回は、はじめに、「譬を挙げて自他等を譬う」、「境の功能を明かす」、「諸法を収摂し以て観境に入る」の三段について、順に紹介する。

(9)譬を挙げて自他等を譬う

 ここでは、如意珠、三毒、夢の三種の比喩を取りあげて、自行の境、化他の境などについてたとえている。第一の如意珠の比喩については、『摩訶止観』には次のようにある。

 如意珠の如きは、天上の勝宝(しょうぼう)にして、状は芥(からしな)・粟(あわ)の如くなるも、大なる功能(くのう)有り。浄妙の五欲、七宝、琳琅(りんろう)は、内に蓄うるに非ず、外より入るに非ず、前後を謀(はか)らず、多少を択(えら)ばず、麁妙を作さず、意に称(かな)いて豊倹にして、雨を降らすこと穣穣として、添えず尽きず。蓋し是れ色法すら尚お能く此の如し。況んや心神の霊妙なるをや。寧んぞ一切の法を具せざらんや。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、596-598頁)

と。如意珠は芥や粟のように小さな存在であるが、五欲(眼・耳・鼻・舌・身の五官の対象である色・声・香・昧・触の五境は、人の欲望を引き起こすので、五欲という)、七宝(たとえば金・銀・琉璃・車𤦲[しゃこ]・馬瑙[めのう]・真珠・攻塊[まいえ]をいう)、琳琅(美しい珠玉)などを自在に出すという大きな働きを持っていることを指摘している。
 如意珠の対応梵語はチンターマニ(cintāmaṇi)で、意のままに宝を出すことのできる珠のことである。如意珠のような色法でさえ、このように多くのものを自在に出すことができるのであるから、まして霊妙な心においてはなおさら一切法を備えることができると述べている。つまり極小の一念心が極大の三千世間を備えることを、如意珠によってたとえているのである。
 次に第二の三毒の比喩については、

 又た、三毒の惑心は、一念の心起こるに、尚お復た身・辺・利鈍・八十八使、乃至、八万四千の煩悩あり。若し先より有りと言わば、那んぞ忽(たちま)ち縁を待たん。若し本(も)と無しと言わば、縁対するに即ち応ず。有ならず無ならず。定有は即ち邪にして、定無は即ち妄なり。当に知るべし、有なれども有ならず、有ならざれども有なり。惑心すら尚お爾り。況んや不思議の一心をや。(『摩訶止観』(Ⅱ)、598頁)

と述べられている。貪・瞋・癡の三毒の迷いの一瞬の心が生じる場合、身見、辺見、利・鈍の煩悩(身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見の五利使と、貪・瞋・癡・慢・疑を五鈍使とをいう)、見惑の八十八使、ないし八万四千の煩悩があると述べている。つまり三毒の迷いの心から八万四千もの煩悩が生じることを指摘している。そして、この煩悩はあらかじめ固定的にあるのでもなく、固定的にないのでもないのであるとされる。迷いの心(煩悩)ですらそうであるので、まして不思議の一心はなおさら多数のものを備えることができることを説いている。
 次に、第三の眠りの比喩については、

 又た、眠りて夢に百千万の事を見るも、豁寤(かつご)すれば、一も無し。況んや復た百千をや。未だ眠らざれば、夢みず、覚めず、多ならず、一ならず。眠の力の故に多と謂い、覚の力の故に少と謂うが如し。荘周は夢に蝴蝶と為って翾翔(けんしょう)すること百年なるも、寤(さ)むれば、蝶に非ず、亦た歳を積みしに非ざることを知る。無明は法性に法(のっと)れば、一心は一切心なり。彼の昏眠の如し。無明は即ち法性なりと達すれば、一切心は一心なり。彼の醒寤(しょうご)の如し、云云。又た、安楽行を行ずる人は、一たび眠りて、初めて発心し、乃至、仏と作り、道場に坐して法輪を転じ、衆生を度して涅槃に入ると夢みるも、豁寤すれば、秖(た)だ是れ一夢の事なり。若し三の喩を信ぜば、則ち一心を信ぜん。口の宣ぶる所に非ず、情の測る所に非ず。(『摩訶止観』(Ⅱ)、598頁)

と述べられている。眠っていて百千万の事柄を夢みるが、ぱっと目覚めたときは、一つの事柄もないし、まだ眠らないときは、夢みることもなく、目覚めることもなく、夢みる事柄は多くもなく、一つでもなく、眠りの力のために多いと思い、目覚めの力のために少ないと思いこんでいるだけであると指摘している。
 さらに、荘周が胡蝶になって百年間飛びまわるのを夢みるが、目覚めると、自分が蝶でもなく、百年の年月を経たわけでもないことがわかるという、いわゆる「荘周蝴蝶の夢」に言及している。これは、『荘子』斉物論に、「昔者(むかし)、荘周は夢に胡蝶と為る。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり。自ら喩(たの)しみて、志に適(かな)えるかな。周たるを知らざるなり。俄然(がぜん)として覚むれば、則ち蘧蘧然(きょきょぜん)として周なり。周の夢に胡蝶と為るか、胡蝶の夢に周と為るかを知らず。周と胡蝶とは、則ち必ず分有り。此れを之れ物化(ぶっか)と謂う」と出る。
 次に、無明と法性の関係を踏まえて、一心は一切心であり、一切心は一心であると述べている。『輔行』巻第五之三には、「『無明は法性に法る』は夢の蝶を合し、『一心は一切心なり』は百年を合す。『無明は即ち法性なりと達す』は悟りて蝶に非ずと知るを合す。『一切心は一心なり』は歳を積むに非ざるを合す」(大正46, 299下11~14)と注釈している。
 さらに、安楽行品に出る夢の比喩に言及している(※1)。安楽行を修行する人が、一度眠って、はじめて発心してから仏となって道場に座り、法輪を転じて衆生を救済し、涅槃に入るまでを夢みても、目覚めれば、ただ一つの夢の事柄にすぎないというものである。
 最後に、もしこの三種の比喩を信じれば、一心を信じることになるが、口で述べられるものでもなく、心によって推しはかられるものでもないと結論づけている。

(注釈)
※1 『法華経』安楽行品、「若しは夢の中に於いても、但だ妙なる事を見ん。諸の如来の師子座に坐して、諸の比丘衆に囲遶せられて説法するを見ん……無上道を成じ已り、起って法輪を転じ、四衆の為めに法と説くこと、千万億劫を逕(ふ)。無漏の妙法を説き、無量の衆生を度して、後に当に涅槃に入ること、烟(けむり)尽きて灯の滅するが如し」(大正9、39中20~下15)を参照。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。