人類学者のデヴィッド・グレーバーが、『ブルシット・ジョブ』という厚い本を出した。高額な報酬を得ているけれど、社会や人々にとって、あまり役に立っていない仕事を批判している。これは、コロナ禍でエッセンシャルワーカーが注目されたのとパラレルな出来事だ。
社会を営み、人が生活するうえで、不可欠な仕事が、エッセンシャルワークだ。医療従事者、介護士、教師、清掃員など、その人たちがいなければ、僕らの社会は回ってゆかない。
それに比べて、ブルシット・ジョブは、受付係、顧問弁護士、企業のコンプライアンス担当者、中間管理職など、いなかったとしても、誰も不自由を感じることのない仕事ばかりだ。
仕事本の類は少なくないけれども、多くの人がなんとなくそう思いながら、言葉にならなかったことを指摘した仕事本は、初めて読んだ。グレーバーは偉い。と、いいながら、今回取り上げるのは別の本である。
ブレイディみかこの『私労働小説 ザ・シット・ジョブ』だ。帯のコピーは本作を、「社会に欠かせぬ仕事ほど低賃金、重労働、等閑視される世に投じる、渾身の労働文学!」と銘打っている。〝あとがき〟にはグレーバーへの言及もあれば、こんな文章もある。
わたしが書きたかったのは、わたしは様々な仕事をしながら、ずっと同じ疑問を抱き続けてきたということである。
それは、世の中には、金銭的にも報われず、社会的にも軽視されている仕事があるのだが、これらの仕事はいつまで経っても報われないままでいいのかという疑問である
グレーバーの著作は思想書だけれど、本作は短編連作の小説だ。冒頭の第一話「一九八五年の夏、あたしたちはハタチだった」は、中洲のクラブと天神のガールズパブをかけもちする主人公チホが登場する。
チホは、日本を脱出してイングランドへ行きたいと願っている。それで、「日本にいるときはいつも死んでいた。死んでいるときに人間がすることは金を稼ぐことだ。再び生きるための資金を得るのである」。
つまり、彼女はイングランドへ行くという夢を叶えるのに、自分にとってはシット・ジョブでしかない仕事をしている。働くことになんの意義もない。ただ、金を稼ぐだけ。仕事なんて、そんなもんさ、と割り切っている大人は多いだろう。
けれど、それは長続きしない。「再び生きるための資金」を得たら終わりだ。チホの場合もそうだっただろう。次の短篇「ぼったくられブルース」の主人公里佳子はイギリスでホームステイして、英語学校に通っている。
彼女は、ホームステイ先で下宿代を払いながらメイドのように扱われ、女友達の紹介してもらって、上流階級の家庭で住み込みのナニー(子守のようなもの)になる。子供の登下校の世話をするだけで、家賃はいらない、ただし、賃金もなし。悪くない話だと思った。
が、ここでもだんだん家事を手伝わされるようになって、自分は「ぼったくられている」と気づいて、家を出る。
短篇の主人公たちは、クリーニング工場の夜間作業員、保育士、スーパー・マーケットの「まかないさん」、など、イングランドと日本を行き来しながら、さまざまな仕事に就く。
職場では、たびたび社会のひずみを実感するような出来事と遭うけれども、彼女たちは逃げずに戦う。その態度がすがすがしく、励まされる。
日本だけでなく、イングランドの社会をも生き抜くブレイディみかこならではの、出色の「お仕事小説」だ。
オススメの本:
『私労働小説 ザ・シット・ジョブ』(ブレイディみかこ著/角川書店)