『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第65回 正修止観章㉕

[3]「2. 広く解す」㉓

(9)十乗観法を明かす⑫

 ③不可思議境とは何か(10)

(7)化他の境を明かす(2)

 以下、為人悉檀(一切の善法を生ずることに関する)・対治悉檀(一切の悪法を対治することに関する)の説明が続くが、この説明を省略し、最後の第一義悉檀についての『摩訶止観』の説明を引用する。

 云何んが第一義悉檀もて心は理を見ることを得ん。「心は開け意は解(と)けて、豁然(かつねん)として道を得」と言うが如し。或いは、縁は能く理を見ると説く。「須臾(しゅゆ)も之れを聞かば、即ち三菩提を究竟することを得」と言うが如し。或いは、因縁は和合して道を得と説く。「快馬(けめ)は鞭の影を見て、即ち正路を得るが如し」と。或いは、離して能く理を見ると説く。「無所得は即ち是れ得にして、已に是れ得は無所得なり」と言うが如し。是れ第一義の四句に理を見ると名づく。何に況んや心は三千の法を生ずるをや。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、588頁)

と。ここでは、理を見ることについて四つの立場(自・他・共・離)を肯定する経典を引用している。第一に(自の立場)心が理を見ることについては、「心がぱっと開けて、すっきりと覚りを得る」という文を引用しているが、出典は不明である。
 第二に(他の立場)対象(縁)が理を見ることができると説く場合については、『法華経』法師品、「是の人は歓喜して説法し、須臾に之れを聞かば、即ち阿耨多羅三藐三菩提を究竟することを得るが故なり」(大正9、31上9~11)を引用している。
 第三に(共の立場)心という因と心の対象が和合して覚りを得ると説く場合については、「速い馬は鞭の影を見ただけで、すぐさま正しい路にもどる」という文を引用しているが、これは『雑阿含経』巻第三十三、「世に四種の良馬(りょうめ)有り。良馬有りて、駕(が)するに平乗(びょうじょう)を以てし、其の鞭の影を顧みて馳駃(ちかい)し、善能(よ)く御者の形勢を観て遅速左右し、御者の心に随う。是れ比丘の世間の良馬第一の徳と名づく。……彼の良馬の影を顧みるれば則ち調うが如し。是れ第一の善男子、正法に於いて、律もて能く自ら調伏すと名づく」(大正2、234上17~中4)に基づいたものであろう。天台の文献に、よく引用されるものである。
 第四に(離の立場)心と対象から離れて理を見ることができると説く場合については、「無所得は[空性を]得ることであり、ついには[空性を]得ることは無所得である」という文を引用しているが、これは『思益梵天所問経』巻第一、解諸法品、「如来は道場に坐する時、惟(た)だ虚妄顛倒の起こす所の煩悩の畢竟空性なるを得。無所得を以ての故に得、無所知を以ての故に知る」(大正15、39中10~12)、同巻第三、論寂品、「無所得なるが故に、乃ち名づけて得と為す。有所得の若(ごと)きは、当に知るべし、是れ増上慢の人と為す。正しく行ずる者に増上慢無く、増上慢無ければ、則ち無行、無得なり」(同前、49下9~11)に基づくものであろう。
 以上のように、四悉檀という理由によって、自・他・共・離の立場に立った説き方が可能であることを説明した後に、不可思議・不可説と四悉檀という理由による可説をまとめて結論づけて、

 仏旨は尽(こと)ごとく浄くして、因・縁・共・離に在らず。世諦に即して是れ第一義なり。又た、四句は俱に皆な説く可し。因も亦た是(ぜ)、縁も亦た是、共も亦た是、離も亦た是なりと説く。若し盲人の為めに乳は貝の若く、粖(かゆ)の若く、雪の若く、鶴の若しと説かば、盲は諸の説を聞きて、即ち乳を解することを得。世諦に即して是れ第一義諦なり。当に知るべし、終日説くも終日説かず、終日説かざるも終日説き、終日双べ遮し、終日双べ照らす。破に即して即ち立、立に即して即ち破なり。経論は皆な爾(しか)り。(『摩訶止観』(Ⅱ)、588-590頁)

と述べている。仏の趣旨は清浄で、因(心という自)・縁(対象という他)・共・離を超越していることを指摘している。これは、不可思議・不可説の立場を説明したものである。これに対して、因・縁・共・離のいずれの立場も、上に見たように説くことが可能であり、すべて是(正しいこと)として肯定されている。
 また、目の不自由な人が乳の色を理解できるかどうかをめぐる『涅槃経』の比喩に言及している。引用文にあるように、ここの『摩訶止観』の説明では、貝のようだ、粖のようだ、雪のようだ、鶴のようだと説くならば、目の不自由な人はさまざまな説を聞いてすぐに乳を理解することができると解釈している。この比喩は『南本涅槃経』巻第十三、聖行品に説かれる有名な比喩であり、「生盲(しょうもう)の人は、乳の色を識らず、便(すなわ)ち他に問うて言うが如し、乳の色は何に似たるや。他の人は答えて言わく、色は白きこと貝の如し。盲人は復た問うらく、是れ乳の色ならば、貝の如き声なるや。答えて言わく、不(いな)なり。復た問うらく、貝の色は何に似たりと為すや。答えて言わく、猶お稲米(とうまい)の末のごとし。盲人は復た問うらく、乳の色は柔軟なること稲米の末の如きや。稲米の末とは、復た何の似る所たるや。答えて言わく、猶お雨雪(あめゆき)の如し。盲人は復た言わく、彼の稲米の末は、冷たきこと雪の如きや。雪は復た何に似たるや。答えて言わく、猶お白鶴の如し。是の生盲の人は、是の如き四種の譬喩を聞くと雖も、終に乳の真の色を識(し)ることを得ること能わず」(大正12、688下15~23)というものである。
 『涅槃経』では、目の不自由な人が結局乳の色を理解できないと述べているのに対し、『摩訶止観』では、目の不自由な人がさまざまな説を聞いてそれぞれ理解できるとしている点、内容が異なる。
 因・縁・共・離のいずれの立場の言説もすべて正しいとして肯定されることや目の不自由な人がさまざまな説明によって乳の色を理解することが可能であることを、世諦そのままが第一義諦であると規定している(『南本涅槃経』巻第十二、聖行品、「世諦とは、即ち第一義諦なり」([大正12、684下13]を参照)。
 そして、全体の結論として、終日説いても終日説かず、終日説かなくとも終日説き、終日説くのでもなく説かないのでもなく、終日説き、かつ説かないという、説と不説に関する四句分別を示している。「双遮」は説と不説の両者を否定することで、「双照」は両者を肯定することである。これは、『荘子』寓言、「故に曰わく、言無し。言いて言無くば、終身言うも、未だ嘗(かつ)て言わず。終身言わざるも、未だ嘗て言わずんばあらず」と関係しているかもしれない。最後に、ある立場を破ることと確立することの二つの対立する立場の相即を示している。
 さらに、結論の言葉は次のように続く。

 天親・龍樹は、内鑒冷然たり。外には時の宜しきに適(かな)い、各おの権(かり)に拠る所あり。而も人師は偏(ひと)えに解し、学者は苟(かりそめ)に執し、遂に矢石(しせき)を興して、各おの一辺を保ち、大いに聖道に乖くなり。若し此の意を得ば、倶に説く可からず、倶に説く可し。若し便宜に随わば、応に無明は法性に法(のっと)って一切の法を生ずと言うべし。眠法が心に法らば、則ち一切の夢事有るが如し。心と縁と合わせば、則ち三種の世間、三千の相性は、皆な心従り起こる。一性は少なりと雖も、無ならず、無明は多なりと雖も、有ならず。何となれば、一を指して多とせば、多は多に非ず、多を指して一とせば、一は少に非ず。故に此の心を名づけて、不思議境と為すなり。(『摩訶止観』(Ⅱ)、590頁)

 天親や龍樹は、内心では真理を照らして悟っていたが、外に対してはその時代の都合にあわせて、それぞれかりそめに依拠しているものがあったと述べている。天親や龍樹はインドの論師であるから、直接の批判の対象とはしていない。彼らの言説に限界があったとしても、それにはちゃんと理由があることであると擁護している。それに対して、中国の人師や学者は一つの極端な立場を保持して、大いに聖人の道に背くことになってしまうと批判している。もし天親や龍樹の意味と四悉檀の意味を理解すれば、四悉檀に基づく言説は説くこともできないし、また説くこともできるというように、両方の立場を肯定することができるとされる。
 以下、便宜にしたがうという条件のもとで、具体的な説が示されている。無明は法性に則って一切法を生ずること、心が対象と合わされば、五陰世間・衆生世間・国土世間の三種の世間、三千の相性(「三千法」、「三千種世間」)はみな心から生じることなどである。最後に、この心を不思議境(思議を超えた対象界)と名づけると結論している。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。