自由と民主化を求める中国青年の青春群像
楊逸(ヤン・イー)著/第139回芥川賞受賞作(2008年上半期)
読み手を惹きつける題材
中国ハルビン市出身の作家・楊逸。日本語以外の言語を母語とする作家として史上初となる受賞が話題を集めた「時が滲む朝」。ところどころに違和感を覚える日本語表現があったとしても、おもしろく読むことができたのは、ひとえにその題材によるものだろう。
自由と民主化を求める中国の若者たちが、天安門事件で人生の挫折を味わう青春群像は、自らの内側にばかり意識が向きがちな今の政治的に無関心な多くの日本人からすれば、極めてスリリングだし、国のために社会変革を求めるその純粋さはある意味新鮮に映る。だからこそ、次はどうなるのだろうと想像しながらページをめくってしまう。
この作品を推す選考委員の多くが指摘していたのが「書きたいこと」のある強みである。池澤夏樹は、
ここには書きたいという意欲がある。文学は自分のメッセージを発信したいという意欲と文体や構成の技巧が出会うところに成立する
と言い、高樹のぶ子は、
書きたいことがあれば、それを実現するために文章もさらに磨かれるだろう。根本の熱がなければ、文学的教養もテクニックも空回りする
と述べている。
文章的な未熟さが散見されたとしても、今の日本人が持ちえない特殊な経験を多く抱えている楊逸に対して、選考委員は期待した部分もあったのだろう。
これは果たして純文学か?
受賞に反対した選考委員に共通するものは、「これは風俗小説ではないか」という意見である。芥川賞は、中短編の純文学に対して贈られるものだ。純文学の定義についてはさまざまな見解があるが、〝芸術性の高さ〟という観点から言えば、確かに本作は違和感がある。特に、田舎育ちの青年が厳しい大学受験を乗り越えて大学生活を迎えるところから話が始まり、民主化運動に身を投じ挫折し日本に渡り、結婚し子どもが生まれ生活を構築するまでを描く、その時間経過の長さが、表現しようとするものの純度を下げているような気がするのだ。
石原慎太郎は、
彼らの人生を左右する政治の不条理さ無慈悲さという根源的な主題についての書きこみが乏しく、単なる風俗小説の域を出ていない
と言う。
黒井千次は
激動する時代を生きる人間の歳月をこのような書き方で描くとしたら、それは長篇小説がふさわしかったろう。その素材を中篇といった長さに押し込んでしまったところに構成上の無理がある
と指摘し、山田詠美は
ページをめくらずにはいられないリーダブルな価値は、どちらかといえば、直木賞向きかと思う
と言う。
また、小川洋子は、
(主人公の)苦悩は、内側に深まってゆかない。残留孤児二世との結婚、来日、子供の誕生と、外へ外へと拡散する方向にのみ動いてゆく
と述べている。
また、その文章については、荒削りだということは認めつつも今後の執筆の中で改善されていくだろうという期待の声もあったのだが、この点について厳しく指摘していたのは、宮本輝だった。
私は、芥川賞もまた文章の力というものが評価の重要な基準と考えているので、唾を飲み込んで『ゴックン』などと書かれると、もうそれだけで拒否反応を起こしてしまう
と厳しい。
冒頭、「題材の勝利」と述べたが、これについて興味深い指摘をしていたのは村上龍だった。
おそらくわたしの杞憂にすぎないのだろうが、『時の滲む朝』の受賞によって、たとえば国家の民主化とか、いろんな意味で胡散臭い政治的・文化的背景を持つ『大きな物語』のほうが、どこにでもいる個人の内面や人間関係を描く『小さな物語』よりも文学的価値があるなどという、すでに何度も暴かれた嘘が、復活して欲しくないと思っている
今のところ、その杞憂は杞憂に終わっているようだが、これから先は分からない。極めて狭い世界の中で内向する作品や、妄想の中で遊ぶような作品などに辟易するうっぷんも溜まっているような気もするからだ。
「芥川賞を読む」:
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