第63回 正修止観章㉓
[3]「2. 広く解す」㉑
(9)十乗観法を明かす⑩
③不可思議境とは何か(8)
(6)自行の境を明かす②
この質問に対する答えのなかに、前述したように、地論宗と摂論宗の考えを紹介し、批判している。やや長文であるが、引用する。
答う。地人(じにん)の云わく、「一切の解惑・真妄は、法性に依持(えじ)す。法性は真・妄を持し、真・妾は法性に依るなり」と。『摂大乗』に云わく、「法性は惑の染(ぜん)する所と為らず、真の浄むる所と為らず。故に法性は依持に非ず。依持と言うは、阿黎耶(ありや)是れなり。無没(むもつ)の無明は、一切の種子(しゅうじ)を盛持(じょうじ)す」と。若し地師(じし)に従わば、則ち心に一切法を具す。若し摂師(しょうし)に従わば、即ち縁に一切法を具す。此の両師は、各おの一辺に拠る。若し法性は一切法を生ぜば、法性は心に非ず、縁に非ず。心に非ざるが故に而も心は一切の法を生ぜば、縁に非ざるが故に亦た応に縁は一切法を生ずべし。何ぞ独り法性は是れ真・妄の依持なりと言うことを得んや。若し法性は依持に非ず、黎耶(りや)は是れ依持なりと言わば、法性を離れて外に、別に黎耶の依持有らば、即ち法性に関わらず。若し法性は黎耶を離れずば、黎耶の依持は、即ち是れ法性の依持なり。何ぞ独り黎耶は是れ依持なりと言うことを得ん。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、578-580頁)
と。地論師(地論宗の人)は、「法性」という概念を提示して、法性と「すべての覚りと迷い、真実と迷妄」との関係について、「依持」という言葉を用いて説明している。「法性は真妄を持し、真妄は法性に依るなり」の「持」と「依」とを合わせて熟語としたものと考えられる。したがって、「依持」は方向の異なる動詞を熟語化したもので、漢語としては奇妙であるが、内容を取って、法性は真実と迷妄を支え、真実と迷妄は法性に依存していることを表現していると解釈した。
これに対して、もう一つの立場については、『摂大乗論』を引用して、「法性は迷いにも汚染されず、真実にも清められない。それ故、法性は依りどころ・支えではない。依りどころ・支えというのは、阿黎耶識のことである。不滅の無明があらゆる種子を受け入れて保持する」といっている。実際には、この文は『摂大乗論』には見られないので、摂論師(摂論宗の人)の説をこのように示したのかもしれない。この説では、一切法の依持として法性の代わりに、阿黎耶識(ālaya-vijñāna、アーラヤ識)を提示している。「阿黎耶」は、玄奘以後は「阿頼耶」と音写されるようになる。ここでは「阿黎耶識」を、「無没無明」(不滅の無明)と言い換えているが、「無没」はアーラヤ識の異訳である「無没識」に基づく表現である。無没識はālaya-vijñānaをalaya-vijñānaとして訳したものである。ここでは「無没無明」がアーラヤ識を指している。このアーラヤ識があらゆる種子を受け入れ保持するといわれる。種子は、アーラヤ識に貯蔵される、現象世界を形成する可能力で、草木を生じる種子にたとえたものである。
そして、法性を一切法の依持とする地論宗の立場を「心に一切法を具す」と整理している。また、阿黎耶識=無没無明を一切法の依持とする摂論宗の立場を「縁に一切法を具す」と整理している。つまり、法性を心に、無明を緑にそれぞれ配当していることになる。
『摩訶止観』では、これら二師の説はそれぞれ一つの極端を依りどころとしていると批判している。法性が一切法を生ずるという場合についていえば、法性は心でもなく、縁でもないので、心でないという理由で心が一切法を生ずるならば、縁でないという理由で縁もまた一切法を当然生ずるはずである。どうしてただ法性だけが真実・迷妄の依りどころ・支えであるということができようかと指摘している。一方、アーラヤ識が依りどころ・支えであるという摂論師の立場についていえば、法性を離れて別にアーラヤ識という依りどころ・支えがあるならば、法性に関係しなくなるし、法性がアーラヤ識を離れないならば、アーラヤ識という依りどころ・支えは、法性という依りどころ・支えとなる。どうしてただアーラヤ識だけが依りどころ・支えであるということができようかと批判している。
次に、『摩訶止観』は、このことを心、夢、眠りの関係にたとえて説明している。内容の要点を示す。
心に依存するから夢があるのか、眠りに依存するから夢があるのか、眠りが心と合するから夢があるのか、心からも離れ眠りからも離れるから夢があるのか、という四句分別を提示している。そして、それぞれの場合が成立しないことを次のように説明している。
第一に、もし心に依存して夢があるならば、眠らなくとも当然夢があることになろうと批判している。第二に、もし眠りに依存して夢があるならば、死人は眠っているようなので、当然夢があることになろうと批判している。第三に、もし眠りと心とが二つ合わさって夢があるならば、眠っている人にどうして夢を見ないときがあるのか。さらに眠りと心とにそれぞれ夢があるならば、眠りと夢とが合わさって夢があるということが可能である。しかし、それぞれに夢がない以上、合わさっても当然夢はあるはずがないと批判している。第四に、もし心からも離れ眠りからも離れて夢があるならば、虚空は心と眠りとの二つから離れているので、虚空に当然常に夢があることになろうと批判している。結論として、四句によって夢を追求してもまだ実体として捉えることができないのであるから、どうして眠っているときの夢においてあらゆる事柄を見るのかと述べている。
この比喩では、心は法性、眠りはアーラヤ識、夢は一切法を生ずることをそれぞれたとえている。どうして法性かアーラヤ識のいずれか一方を依りどころとして一切法を生ずるとするのかと批判しているのである。
以上、法性、または阿黎耶から一切法を生じることを、夢の比喩の四句推検によって否定してきたが、そのことを『輔行』では「横破」と呼び、さらに、『摩訶止観』が引き続いて、一念心の滅(一瞬の心が消滅すること)、亦滅亦不滅(滅でもあり不滅でもあること)、非滅非不滅(滅でもなく不滅でもないこと)から三千の法を生ずることを否定する部分を「竪破」(じゅは)(縦に破ること)と呼んでいる。すでに心から三千の法を生ずることが否定されているので、ここの議論では、一念心の生(=不滅)から三千の法を生ずることの否定は繰り返されないが、それを含めて考えると、ここでも一念心の生(=不滅)、滅、亦滅亦不滅、非滅非不滅の四句分別がなされているのである。
一念心の滅に関しては、一念心の消滅から三千の法を生ずるべきであろうか。心が消滅して、一法でさえ生ずることはできないのであるから、どうして三千の法を生ずることができようか、と述べている。
亦滅亦不滅に関しては、もし心の消滅かつ不消滅から三千の法を生ずるならば、消滅と不消滅とは、その性質があたかも水と火とが両立しないようにたがいに異なっているので、どうして三千の法を生ずることができようか、と述べている。
非滅非不滅に関しては、もし心が消滅でもなく不消滅でもないことから、三千の法を生ずるというならば、消滅でもなく不消滅でもないことは、能でもなく所でもない(※1)ので、どうして能所によって三千の法を生じようか、と述べている。
このように、四句分別の後に、縦でもあり横でもあることによって三千の法を追求しても、実体として捉えることができず、縦でもなく横でもないことによって三千の法を追求しても、実体として捉えることができない。つまり、一念三千については、言語表現の方法はなくなり、心の働く範囲は消滅するので、思議を越えた対象界と名づけられると結論している。
※1 ここの論理はよくわからないが、『輔行』巻第五之三には、「滅を能生と為し、不滅を所(生)と為す。既に双非を云えば、即ち能所無し。云何んが更に三千の法を生ずるや」(大正46、297中21~22)とある。
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