芥川賞を読む 第43回 『乳と卵』川上未映子

文筆家
水上修一

饒舌な口語体で描いた人物描写が鮮やか

川上未映子(かわかみ・みえこ)著/第138回芥川賞受賞作(2007年下半期)

登場人物の鮮やかな描写が読者を引き込む

「乳と卵」で芥川賞を受賞した川上未映子は、その後もさまざまな文学賞を受賞。2024年上半期の芥川賞からは、選考委員も務めており、作家デビュー前の2004年には、歌手としてアルバムも発表もしている。
「乳と卵」は、そのタイトルから想像されるように〝女性性〟をひとつの題材としている。
 主な登場人物は3人。東京で一人暮らしをしている主人公の「わたし」。大阪で暮らす姉の巻子と、その娘の緑子。2人は母子家庭。巻子は、夫と離婚して以降懸命に働いてきたが、現在は豊胸手術に執拗にこだわる。緑子は初潮を迎えたばかりの年代で、自らの胎内に無数の卵を持つことに違和感を持つ。
 この母子のコミュニケーションは、筆談のみ。言葉を発せないわけではない。娘の緑子が、言葉によるコミュニケーションを拒んでいるからだ。そんな娘の気持ちを理解できない巻子。一方、母に伝えたい自分の思いが何であるのかさえ分からず自分自身を持て余す緑子。そんな母子が豊胸手術のために上京し、「わたし」のアパートで過ごす。その3日間を描いている。
 女性性について、この母子は対極にある。豊胸手術が自分の自己満足のためなのか、あるいは異性に対してのアピールなのかは自分でも理解しきれていないようだが、いずれにしても女性の特性を最大限に肯定し伸ばそうとしている巻子に対して、緑子は明らかに女性性に対して拒否的である。題材としての新鮮味はないのだが、そこで描かれている人物像の鮮やかさは見事である。特に、緑子の人物描写からは、思春期を迎えたばかりの女性の匂い立つような混乱の様子が伝わってくる。
 選考委員の黒井千次は「女であることの心身の実像を『泣き笑い』の如く描き出す」と評し、宮本輝は「三人の登場人物には血肉がかよっていて、それぞれの吐息が聞こえる」と言い、山田詠美は「容れ物としての女性の体の中に調合された感情を描いて、滑稽にして哀切」と高評価。
 川上弘美は、他の候補作の登場人物も含めて「どの登場人物にもう一度会いたいか」考えた時に、この緑子を推すと言う。

(緑子は)推し量れないところがある。推し量れないけれど、理解できない、ということではない。あと十年たった緑子がどうなっているのか、たいそう興味をひかれる。病んでいるのに、不思議にすこやかな印象がある

 何にしても、登場人物をどう描くかということは、小説を書く上では最重要の要素であることは間違いない。それが希薄であれば、物語展開がどんなにおもしろくとも、その物語のリアリティは低く、読み手の中に想像は深く広がらず残りもしない。

大阪弁の饒舌な口語体が秀逸

 それを可能にしているのは、文法など多少無視したような、大阪弁による饒舌な口語体の文章だ。読み始めは非常に読みづらい。ところが読み進むに従って語り口のリズムが分かると、スルスルと言葉が頭の中に入って広がっていく。状況描写などしなくても、その語りによって登場人物の性格や考えや感情が伝わってくる。
 往々にして口語調の語りを長くすると、不要なものも書き込んでしまい、締まりのないブヨブヨとした文体になりがちなのだが、これだけ饒舌に語りながらそれがないというのは、まさに才能というしかないだろう。
 その点について、小川洋子はこう述べる。

勝手気ままに振る舞っているように見せかけながら、慎重に言葉を編み込んでゆく才能は見事だった

 村上龍はこうだ。

最初は読みにくい。無秩序で煩雑に思えるが、実は、まるでかってのアルバート・アイラーの演奏を想起させるような、ぎりぎりのところで制御された見事な文体で書かれている

 石原慎太郎は、この文体は嫌いなようだった。

一人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい。この作品を評価しなかったということで私が将来慙愧することは恐らくあり得まい

 ちなみに、この回で前評判が高かったのは、外国人が書いた小説という希少性もあって楊逸の「ワンちゃん」だったのだが、日本語表現が稚拙ということで受賞には至らなかった。山田詠美は「つたない。たどたどしさを魅力に導くのは、技巧を凝らしてこそ」と述べている。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』 第13回『おでるでく』 第14回『この人の閾(いき)』 第15回『豚の報い』 第16回 『蛇を踏む』 第17回『家族シネマ』 第18回『海峡の光』 第19回『水滴』 第20回『ゲルマニウムの夜』 第21回『ブエノスアイレス午前零時』 第22回『日蝕』 第23回『蔭の棲みか』 第24回『夏の約束』 第25回『きれぎれ』 第26回『花腐し』 第27回『聖水』 第28回『熊の敷石』 第29回『中陰の花』 第30回『猛スピードで母は』 第31回『パーク・ライフ』 第32回『しょっぱいドライブ』 第33回『ハリガネムシ』 第34回『蛇にピアス』 第35回『蹴りたい背中』 第36回『介護入門』 第37回『グランドフィナーレ』 第38回 『土の中の子供』 第39回『沖で待つ』 第40回『八月の路上に捨てる』 第41回『ひとり日和』 第42回『アサッテの人』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。