『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第62回 正修止観章㉒

[3]「2. 広く解す」⑳

(9)十乗観法を明かす⑨

 ③不可思議境とは何か(7)

(5)一念三千②

 さらに、一念心(一瞬の心)と一切法の関係を、「生」、「含」という用語で捉えることについて、次のように説明している。

 今の心も亦た是の如し。若し一心従り一切の法を生ぜば、此れは即ち是れ縦なり。若し心は一時に一切の法を含まば、此れは即ち是れ横なり。縦も亦た不可なり、横も亦た不可なり。秖だ心は是れ一切の法、一切の法は是れ心なり。故に縦に非ず、横に非ず、一に非ず、異に非ず、玄妙深絶(げんみょうじんぜつ)にして、識の識る所に非ず、言(ごん)の言う所に非ず。所以に称して不可思議境と為す。意は此に在り、云云。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、576頁)

と。ここでは、一心から一切法を生ずる場合を縦とし、心が同時に一切法を含む場合を横とし、そのうえで、縦も横も否定している。そして、心は一切法であり、一切法は心であると述べ、一心と一切法との関係は縦でもなく横でもなく、同一でもなく相違するのでもないとしている。これを奥深く微妙で、極めて深遠であり、心で認識できるものでもなく、言葉で表現できるものでもないと述べ、それを不可思議境と呼んでいる。
 直前に引用した二つの文を整理すると、私たちは一念三千というと、すぐに一念心と三千世間(一切法)とを対立する二項として措定し、それから二項の関係を種々に考えるという思惟の癖がある。『摩詞止観』はその誤りを防ぐために、上のような議論を展開しているのである。
 一念と三千の関係について、一念が先にあって三千が後にあるのでもなく、三千が先にあって一念が後にあるのでもなく、一念が根源となって三千を生起させる関係でもなく、一念が一時に三千を包含している同時的関係でもないと説明されている。後の二つの場合は、生じる、含む(=具す)という二種の関係として扱われており、いずれも否定されている。これは、心が一切法を生じ(能生)、具する(能具)のでもなければ、また他方、一切法の側から言えば、一切法がそれによって生みだされ(所生)、具される(所具)のでもなく、心と一切法とは能所(主観と客観)の関係において捉えられず、したがって、生という関係も、具という関係もそこには認められないというものである。では、心と一切法とはどのような関係にあるのか。『摩訶止観』では、まず「心は是れ一切の法、一切の法は是れ心なり」と述べて、心と一切法の相即不二の関係が指摘されているが、最終的には、「玄妙深絶」であって、あらゆる言葉、思慮の及ばないものだといわれるのである。
 実は、「不可思議境を明かす」段は、「総じて理境を明かす」、「自行の境を明かす」、「化他の境を明かす」、「略して自他事理を結し以て三諦を成ず」、「譬を挙げて自他等を譬う」、「境の功能を明かす」、「諸法を収摂し以て観境に入る」の七段に分かれる。ここまでで、第一の「総じて理境を明かす」が終わった。

(6)自行の境を明かす①

 一心と一切法(三千の法、三千世間)の関係について、地論宗と摂論宗の考えを紹介し、批判している。『摩訶止観』には、一つの問答が設けられている。まず、質問が、

 問う。心の起こるには、必ず縁に託す。心に三千の法を具すと為すや、縁に具すと為すや、共(ぐう)じて具すと為すや、離して具すと為すや。若し心に具せば、心は起こるに、縁を用いず。若し縁に具せば、縁に具して、心に関わらず。若し共じて具せば、未だ共ぜざるに、各おの無し。共ずる時、安(いずく)んぞ有らん。若し離して具せば、既に心を離れ縁を離るれば、那んぞ忽ち心に具せん。四句すら尚お不可得なり。云何んが三千の法を具せんや。(『摩訶止観』(Ⅱ)、576-578頁)

と述べられている。心が一切法を具する(備えること)場合について、『中論』の四句分別の論理を活用し、心が一切法を具することを否定するという趣旨の質問である。
 心が生じるには、心の認識対象の「縁」に依存する必要がある。この縁は、広くは直接的原因(因)に対する間接的条件の意であるが、ここでは、認識の対象の意である。心が生じるとは、心が何らかの対象を捉えることであり、その対象を縁というのである。その場合、心に三千の法を備えるのか、対象に備えるのか、心と対象と共同して備えるのか、心と対象と無関係に備えるのかという四句分別がなされる。これを「四句推検」と呼ぶ。『中論』巻第一、観因縁品、「諸法は自ら生ぜず、亦た他従り生ぜず、共ならず、無因ならず。是の故に無生を知る」(大正30、2中6-7)に基づいて、諸法の生起の不可得を、自(じ)(自己自身)から 生じること、他から生じること、共(自と他の共同)から生じること、離(自と他のどちらからも離れていること、つまり無原因)から生じることの不可能性を示すことによって証明するものである。ここでは、「心」が「自」、「縁」が「他」、心と縁との共同が「共」、心と緑から離れた無原因が「離」である。
 内容的には、もし心に三千の法を備えるならば、心が生じるのに対象を必要としない。もし対象に備えるならば、対象に備えるのであって心に関係しない。心と対象が共同して備えるならば、共同しないときに心と対象にそれぞれ備えないのであるから、どうして共同するときに備えることがあろうか。もし心と対象と無関係に備えるならば、心を離れ、対象を離れている以上、どうして突然心に備えることがあろうかという。そして、結論として、「四句すら尚お不可得なり」と述べている。「四句」は、心、縁、共、離の四句を指す。四句は三千の法を備えるあらゆる可能性を余すところなく列挙したものであるから、四句によってさえまだ捉えることができないのであれば、三千の法を備えることはできないと結論できる。「不可得」は文字どおりには把握することができないの意である。ここでは、三千の法を備えることが把握することができないの意である。つまり、三千の法を備えることが把握できる対象として成立していないこと、端的にいえば、三千の法を備えることが不可能であることを意味する。(この項、つづく)

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。