鶴見俊輔を知ったのは、「限界芸術」という彼のアイデアに出会ったからだった。
『限界芸術論』によれば、芸術には、純粋芸術(一般に芸術と呼ばれている作品)、大衆芸術(俗悪なもの、非芸術的なもの、ニセモノ芸術と考えられる作品)、限界芸術(両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品)の3種類がある。
鶴見は、宮沢賢治を限界芸術の実作者ととらえている。そのことが、多くの人に受け容れられ、しかも豊かな芸術性を備えている文学を構想していた僕にとって、大きな触発となった。
また、日本では小学校しか出ていないのに、渡米してハーバード大学で学んで、図書館でアルバイトをしているとき、ヘレンケラーと出会い、「私はいまunlearnしている」といわれて、unlearnを「学びほぐす」と訳し、人は学びほぐすことが必要だと説いたことにも教えられた。
それから僕は、鶴見俊輔の仕事に注目するようになったのだけれど、彼が詩を書いていたことは知らなかった。『もうろくの春 鶴見俊輔詩集』――さっそく注文した。
『鶴見俊輔、詩を語る』は、80歳になった鶴見に、谷川俊太郎、大学の教え子で詩人の正津勉が聞き役になって、詩の話を繰り広げる鼎談だ。後書きによると、『もうろくの春 鶴見俊輔詩集』を読んだ正津が、
ここにはあるいは長らく隘路に入った今日の詩に風穴を開ける鍵があるのではないか
と谷川俊太郎に呼びかけたところ、季刊詩誌で連載鼎談が始まったとある。それが2003年。本作は、2022年に鶴見俊輔生誕百年を記念して出版された。冒頭に谷川の詩が掲げられている。
会って話を聞く
書かれた言葉を読む
懐かしく思い出す
俊の一字の
縁に結ばれて
私の鶴見俊輔像は
揺るがない
鶴見の思想は、生活や人間の実存としっかり結びついている印象があって、僕はときどき彼の著作を読み返す。とくに『限界芸術論』は何度も読んだ。鶴見が限界芸術のアイデアを提示したのは、そのころの主流である純粋芸術への抵抗だとおもうが、彼の詩はどうなのだろうか。
きのこはアンモニアをかけると
表に出てくるが
それまで何年も何年も
菌糸としてのみ地中にあるという表に出たきのだけをつみとるのも自由
しかしきのこがあらわれるまで
菌糸はみずからを保っている
何年も何年も
もぐらが便所をそこにつくるまで
鶴見は、言葉を人間語→生物語→存在語にわけていて、自分は存在語をめざしているという。
原爆に撃たれた影の人がいるでしょ。それが存在語なんだよね
これは言葉以前のコトバとでもいえばいいのか。そういうコトバで書いた詩をめざすのは、いかにも鶴見らしい。
もうひとつ、本作を読んで、鶴見が現代には「歌学」が欠如しているといっているのに、深い衝撃を受けた。現代の日本は、西洋の「科学」を接ぎ木して、うまくくっついていない。だから、とくに政治などは、「歌学」を必要としているという。
政治に潤いがないのは、そのせいか、と納得した。
ああ、『もうろくの春 鶴見俊輔詩集』の届くのが、待ち遠しい。
オススメの本:
『鶴見俊輔、詩を語る』(鶴見俊輔/聞き手:谷川俊太郎、正津勉/作品社)