『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第59回 正修止観章⑲

[3]「2. 広く解す」⑰

(9)十乗観法を明かす⑥

 ③不可思議境とは何か(4)

(3)十如是——総じて釈す②

 第二に、「如是性」については、

 性は以て内に拠る。総じて三義有り。一に不改を性と名づく。『無行経』に「不動性」と称す。性は即ち不改の義なり。又た、性は性分と名づく。種類の義は、分分同じからず、各各改む可からず。又た、性は是れ実性なり。実性は即ち理性なり。極実にして過無きは、即ち仏性の異名なるのみ……心も亦た是の如く、一切の五陰の性を具し、見る可からずと雖も、無と言うことを得ず、智眼を以て観ずるに、一切の性を具す」(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、566頁)。

 性は事物の内側を拠り所としていると解釈し、事物の外側を拠り所とすると解釈した「相」との対比を際立てている。この性に三つの意義があるとする。第一には、「不改」、つまり変化しないことを意味している。『諸法無行経』では「不動の性」と呼んでいるといっているが、実際には「不動の相」は頻出するが、「不動の性」は見られない。
 性の第二の意味は、「性分」、つまり生まれつきの性質に名づけたものである。これは「種類」という意義ともいわれている。それぞれの持ち前が異なっており、それぞれ変化させることができないということである。「種類」は、他と区別され、あるまとまりを持ったものの集まりを意味する。性の第二の意味として、「性分」(生まれつきの性質は当然人によって異なる)を取りあげ、それを「種類の義」といっている。次下に出る「種性」も生まれつきの性質の意であるが、この第二の意味である種類としての性を指すものであろう。仏教用語としては、種姓と同じくゴートラ(gotra.血統、家柄などの意)の漢訳語として使われる。また、修行者の素質を意味し、経論によって種々に分類される。
 さらに、性の第三の意味は、「実性」、つまり真実の本性である。真実の本性とは、「理性」、つまり真理としての本性にほかならない。「極実」、つまり最高の真実で過失がないのは、とりもなおさず仏性の別名であるとされる。心も同様にすべての五陰の性を備えており、それを見ることはできないけれども、それがないということはできず、智慧の眼で観察すると、心はすべての五陰の性を備えていると結論している。
 次に、十如是に関するある師の説を紹介し、批判している。

 又た、有る師は、『法華』の十如を判ずるに、「前の五如は凡に属して、是れ権なり。後の五は聖に属して、実と為す」と。汝が判ずる所に依らば、凡は則ち実無ければ、永く聖と成ることを得ず、聖に権無ければ、正遍知(しょうへんち)に非ず。此れは乃ち専輒(せんちょう)の説なり。仏を誣(し)い、凡を慢(あなど)るのみ。(『摩訶止観』(Ⅱ)、568頁)

 ある師の説は、十如是のうち前の五つ(相・性・体・力・作)が凡夫に所属して権(方便)であり、後の五つ(因・縁・果・報・本末究竟等)は聖人に所属して実(真実)であると判定するものである。『法華玄義』巻第二上では、この説は北地師の説として、「又た北地師は前の五を以て権と為し、後の五を実と為す」(大正33、693下4~5)と紹介されている。なお、同じ箇所に出る光宅寺法雲(こうたくじほううん)の解釈についても、「光宅は前の五如是を以て権と為し凡夫に属せしむ。次の四如是を実と為し、聖人に属せしむ。後の一如是は、総じて権実を結ぶ」(同前、693中26~28)と紹介されている。法雲の場合は、「本末究竟等」の「本末」を前の五如是を総括するもの、「究竟等」を後の四如是を総括するものと解釈しているので、北地師の説と少しく異なる。
 この師の判定によれば、凡夫には実がないので、永久に聖人となることができないし、聖人には権がないので、「正遍知」、つまり普遍的な覚りではないことになる。これは勝手気ままな説であり、仏と凡夫をどちらも軽侮するものであると批判される。
 第三に「如是体」については、「主質(しゅぜつ)の故に体と名づく。此の十法界の陰・入は、俱に色心を用て体質と為すなり」(『摩訶止観』(Ⅱ)、568頁)と説明している。体は、「主質」、つまり根本の事物そのものであるから体と名づけるといわれる。この十法界の五陰は、ともに色心を「体質」、つまり本質としているのである。「質」は、漢語として、本体、実体の意味である。
 第四に「如是力」については、

 如是力とは、堪任(たんにん)の力用なり。王の力士の千万の技能は、病むが故に、無しと謂う。病は差(い)ゆれば、用有るが如し。心も亦た是の如し。具さに諸の力有るも、煩悩の病の故に、運動すること能わず。実の如く之れを観ずれば、一切の力を具す。(『摩訶止観』(Ⅱ)、568頁)

と説明している。「力」とは、「堪任」、つまり持ちこたえるという能力であるといわれる。たとえば、王の大力のある家来に千万の技能があり、病気のためにその技能がなくなったと思っても、病気が治れば、その技能の働きがあるようなものであるという比喩を示している。心も同様に、多くの力を欠けることなく持っており、煩悩という病気のために、その力が働くことができないが、真実ありのままに観察すれば、心はすべての力を備えているとされる。つまり、潜在的な能力を意味するのである。
 第五に「如是作」については、「如是作とは、運為(うんい)建立を作と名づく。若し心を離れば、更に作す所無し。故に知んぬ、心に一切の作を具することを」(『摩訶止観』(Ⅱ)、568-569頁)と説明している。「運為建立」、つまり動作を行なったり、しっかりと設立したりすることを作と名づける。つまり、「力」が潜在的な能力を意味するのに対して、「作」は具体的な行為、動作を意味すると解釈している。そして、もし心を離れれば、なすべきことがけっしてないので、心にすべての作が備わっていることがわかるとされる。
 第六に「如是因」については、「如是因とは、果を招くを因と為し、亦た名づけて業と為す。十法界の業は、心自(よ)り起こる。但だ使(も)し心のみ有らば、諸業は具足す。故に如是因と名づく」(『摩訶止観』(Ⅱ)、570頁)と説明している。果をよび寄せることを因とし、また業(行為)とも名づけると述べている。十法界の業は心から生じ、ただ心がありさえすれば、業が備わるので、如是因と名づけるといわれる。(この項、つづく)

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。