『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第58回 正修止観章⑱

[3]「2. 広く解す」⑯

(9)十乗観法を明かす⑤

 ③不思議境とは何か(3)

 前回に引き続き、「十乗観法を明かす」のなかの「観不可思議境」についての説明を続ける。前回は、不可思議境である一念三千説を構成する、法界、三世間について説明した。今回は、十如是について説明する。

(3)十如是——総じて釈す①

 最初に、十法界の五陰世間における十如是を説明する。冒頭に、

 又た、十種の五陰は、一一各おの十法を具す。謂わく、如是相、性、体、力、作、因、縁、果、報、本末究竟等なり。先ず総じて釈し、後に類に随って釈す。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、564頁)

 この引用文に出ている十如是は、いうまでもなく『法華経』方便品の「仏の成就する所は第一の希有なる難解の法にして、唯だ仏と仏とのみ乃(いま)し能く諸法の実相を究尽す。謂う所は、諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり」(大正9、5下10~13)に基づくものである。仏だけが諸法の実相(智顗においては、あらゆる存在の真実ありのままの様相の意)を究め尽くすといわれ、その実相の存在のあり方として十の範疇を示しているのである。
 さて、古来有名な十如是であるが、『法華経』梵本(サンスクリット本)にはこれに対応するものがなく、実際には五つの間接疑問文になっていることも周知の事実であろう。梵本の私訳をまず紹介すると、「あらゆる法を、シャーリプトラよ、如来こそが説き示し、あらゆる法を如来のみが知る。それらの法は何であるか、それらの法はどのようなものか、それらの法はどのような様態か、それらの法はどのような特徴があるか、それらの法はどのような本質があるか。すなわち、それらの法が何であり、どのようなものか、どのような様態か、どのような特徴があるか、どのような本質があるかという、これらの法について、如来だけが知覚でき、明瞭に知る」とある(※1)
 この文は、仏が身に体現している、あらゆる法の内容について仏だけが知っているということを意味している。十如是に相当する部分は、何であるか、どのようなものか、どのような様態か、どのような特徴があるか、どのような本質があるか、となっており、ほとんど類義語を列挙しただけである。これはインドの仏典の表現上の特徴ともいうべきもので、耳で聞いてよく理解できるように、また内容を強調するために、類似した言葉を羅列するのである。
 このように、この箇所は、仏だけが仏の身につけている法の内容を知っているという趣旨である。五つの類義語を、五つの独立した範疇と理解することには無理があると思われるが、鳩摩羅什は法の範疇をより明確にするために、『大智度論』(※2)に基づいて、十如是を考案した。もっとも鳩摩羅什に十如是という意識があったとは限らない。というのは、鳩摩羅什の『法華経』の翻訳の席に列なり、彼の講義を聞いた竺道生の『妙法蓮花経疏』には、「十一事縁」と解釈しているからである。道生は「本」と「末」を分けて二つに数えているのである(※3)。実際には、智顗の師である南岳大師慧思が十如という整理の仕方を示したことが知られている(※4)
 さて、仏だけが諸法の実相を究め尽くすことができるということは、成仏を目指す衆生の仏道修行の課題を諸法実相の究尽においてもよいということになろう。少なくとも智顗はそのように考えたはずである。しかし、『法華経』自体は、この実相の具体的内容については、かくかくしかじかの相、性、体……などの項目名を挙げているだけで、それ以上の説明は何もしていない。ここに、智顗が独自の思索、体験を通して、実相の内的構造を種々に言語化した理由が存するのである。前回述べた三諦円融説もその努力の結晶であり、とくに一念三千説はそれらの種々の試みの集大成といえるであろう。
 引用文に話を戻すと、この十如是の説明には、総じて釈す、類に随って釈すの二段がある。最初に総じて釈すの段では、十如是の一々を詳しく説明している。
 第一に「如是相」については、

 総じて釈すとは、夫れ相は以て外に拠り、攬(と)りて別かつ可し。『釈論』に云わく、「知り易きが故に、名づけて相と為す。水と火の相は異ならば、則ち知る可きこと易きが如し」と……当に実の如く観ずる者に随って、心に一切の相を具することを信ずべし。(『摩訶止観』(Ⅱ)、564-566頁)

とある。
 相は外面的特徴のことである。事物の外側を拠り所としていて、取り集めて他と区別できる。『釈論』(『大智度論』)の引用文は、「知りやすいので相と名づける。たとえば、水と火は相が異なるので、知りやすいようなものである」という意味である。真実ありのままに観察するものにしたがって、心にすべての相が備わっていることを信じるべきであると戒めている。(この項、つづく)

(注釈)
※1 『法華経』の梵本は、Saddharmapuṇḍarīka, ed. By H.Kern and B. Nanjio, St.-Pétersbourg 1908-12による。
※2 『大智度論』巻第三十二、「復た次に一一の法に九種有り。一には体有り。二には各各法有り。眼・耳は同じく四大もて造ると雖も、眼は独り能く見、耳に見る功無きが如し。又た、火は熱を以て法と為せども、潤すこと能わざるが如し。三には諸法に各おの力有り。火は焼くを以て力と為し、水は潤すを以て力と為すが如し。四には諸法に各自因有り。五には諸法に各自縁有り。六には諸法に各自果有り。七には諸法に各自性有り。八には諸法に各おの限礙有り。九には諸法に各各開通方便有り。諸法の生ずる時、体、及び余の法に、凡そ九事有り」(大正25、298下6~14)、同、巻第三十三、「復た次に、法相を、諸法の業,諸法の所作、力、因、縁、果、報と名づく」(同前、303上8)を参照。
※3 『妙法蓮花経疏』巻上、「此の十一の事縁は、万善を語るなり……万善の始めを末と為し、仏慧の終わりを本と為す」(『新纂大日本続蔵経』27、4中13-17)を参照。
※4 『法華玄義』巻第二上、「南岳師は此の文を読んで皆な如と云うが故に、呼びて十如と為すなり」(大正T33、693中12~13)を参照。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。