本の楽園 第192回 日付のある文章

作家
村上政彦

 10代のころから日記をつけている。といっても、永井荷風のように戦争中は戦火で焼かれないように風呂敷包みにして避難するほど大切にしたわけではない。「欺かざるの記」と称して、文学青年風の日記をつけて、少しばかり気取っていたのだ。
 高校の入学祝いに、親しい友人から梶井基次郎の全集を贈られて、彼の日記を毎日読んだ。梶井は30歳で亡くなっているのだが、商業誌に書いたことがほとんどなく、作品を発表する媒体はたいてい同人誌だった。けれど、生活は作家そのものだった。
 僕はそれに憧れて、梶井の日記を読んで、作家の生活をまねた。確か、太宰治の『人間失格』に、上京して大学の友人から教わったのは、酒と煙草と女とマルキシズムだった、というようなことを書いていた気がするが、僕は梶井の日記から、文学者の在りようを学んだ。
 日記はおもしろい。日本文学には古くから日記文学の伝統があるけれど、文学者だけでなく、市井の人の書いたものでも、そこに人の暮らしや、時代の空気があって、興味を惹かれる。
 坪内祐三の『日記から 50人、50の「その時」』は、小説家、詩人、学者、政治家、官僚、レーサーなど、さまざまな人物の日記から構成されている。もっともいちばん多いのは文学者だけれど、作家は日記をつけるのが仕事にもなるのだから自然なことだろう。
 冒頭に登場するのは夏目漱石だ。

大阪へ小説を書く約束あり。もう書き始めねばならぬと思ふ。一向始める気色なし。自分でも分からず。[明治四十二(一九〇九)年四月九日]

 このころ漱石は朝日新聞に入社して、小説や評論を書くことを仕事にしていた。朝日新聞は東京と大阪で紙面も違っていて、彼はもともと大阪朝日に声をかけられ、次に誘われた東京朝日で働くことになった。
 それで大阪朝日に義理を感じていて、長篇の約束をした。大阪、東京の両紙に連載されたのは、『それから』だった。主人公は、帝大を卒業しながら無職で生活する「高等遊民」長井代助で、当時の社会で起きた事件や出来事を活写しながら、彼の人生が変転するさまを書いた。
 ぱらぱらめくっていて、眼についたのが、高野悦子だ。彼女の書いた『二十歳の原点』は、僕の青春の書だった。読んで共感して、仲のいい友人たちと感想を語り合った。

自己創造を完成させるまで私は死にません。[昭和四十四(一九六九)年五月十三日]

 立命館大学文学部史学科で学んでいた高野は、この年の一月二日に二十歳の誕生日を迎えた。成人の日の日記――

『独りであること』、『未熟であること』、これが私の二十歳の原点である

 ああ、何だかせつない。あのころを思い出す。純粋な高野は6月24日にみずからいのちを断ってしまう。
 さらにぱらぱらめくる。戦争の日記が眼に止まる。山田風太郎の『新装版 戦中派不戦日記』。昭和二十年五月二十四、二十五日と千機におよぶB29爆撃機が東京、横浜へ飛来した。

八時ごろ東京に入った。警報も出ていないのに、全東京は闇黒であった。消燈しているのではない――家がもうあらかた無いのである![昭和二十(一九四五)年六月二日]

 伊藤整は、「日記の書き方を改めること」と題して、こんなことをしるしている。

戦況は報告的なものを新聞の切抜によって編輯し、私はあまり書かぬこと。戦局の批評めいたことは避けるように努める。食物不足の話はなるべくやめ、鶏や農作物の仕事の記録を主にし、また生活の感想を主にすること

 当局の眼を意識してのことだろう。旧ソ連でも、社会に起きている事実をありのまま日記にしるすことが、極めて危険だった時代があった。それを覚悟して日記をつけていた文学者もいた。
 だからといって、伊藤整を責められない。自分ならどうするか。これはそのときにならなければわからないからだ。安全なときには何とでもいえる。いまロシアでは似たような状況が起きている。
 画家の岸田劉生は、関東大震災で起きた流言についてしるしている。

午后より、朝鮮人が、暴動をしてゐてせめて来るといふ。恐怖に恐怖也。米屋と思はれてはといふので炭俵を裏へ運ぶのを手つだふ[大正十二(一九二三)年九月二日]

 これらは過去の記録だけれど、戦争もレイシズムも現在の問題として、僕らの眼の前にある。このような日記を手にしていると、いまその時代に自分が生きている気がしてくる。人間の変わらなさに、少しばかりうんざりする。
 でも、変わることもある。詩人の黒田三郎の日記。

本を整理して夕刻「詩と真実」など岩波文庫十八冊、「現代語訳源氏物語」改造文庫七冊都合二十五冊をこころみに売りにゆく。[昭和二十三(一九四八)年十一月十日]

 結果は、「岩波は星ひとつ二十円改造は原価の百倍で計算して一、三百七〇円の値段である。一、三〇〇円でうれた」とあって、月収の7分の1になった。いまだったら考えられない。
 最後は、樋口一葉の日記。

我が誕生日なればとて赤めしなどたく[明治二十六(一八九三)年三月二十五日]

 一葉は21歳。小説を発表し始めたところだった。
 小説がおもしろいのは、他者の生活や生涯を体験できることだが、本作がおもしろいのは、50人の実在の人物の生きようが体験できることだ。これはなかなかお得である。一粒で二度おいしい、ではなく、一冊で50度おいしい、のだ。

おススメ本:
『日記から 50人、50の「その時」』(坪内祐三著/本の雑誌社)


むらかみ・まさひこ●作家。業界紙記者、学習塾経営などを経て、1987年、「純愛」で福武書店(現ベネッセ)主催・海燕新人文学賞を受賞し、作家生活に入る。日本文芸家協会会員。日本ペンクラブ会員。「ドライヴしない?」で1990年下半期、「ナイスボール」で1991年上半期、「青空」で同年下半期、「量子のベルカント」で1992年上半期、「分界線」で1993年上半期と、5回芥川賞候補となる。他の作品に、『台湾聖母』(コールサック社)、『トキオ・ウイルス』(ハルキ文庫)、『「君が代少年」を探して――台湾人と日本語教育』(平凡社新書)、『ハンスの林檎』(潮出版社)、コミック脚本『笑顔の挑戦』『愛が聴こえる』(第三文明社)など。