迷子になった経験のない人はいるのだろうか? 僕は臆病者なので、子供のころの迷子体験が、いまも忘れられない。小学生になるかならないかのとき、近所の年上のたっちゃんと遊んでいて、夢中で走り回っているうちに、不意に見たこともない風景のなかにいた。
帰り道がわからない。僕は不安で泣きそうになった。いや、実際に泣いた。すると、たっちゃんは、泣くな、まあちゃん(子供のころ僕はそう呼ばれていた)、俺が助けたる、とスーパーヒーローのようなポーズをして、あたりを素早く見回し、あちこちの道に踏み込んだ。
しばらくして、こっちや! と声が聞こえて、彼が姿を見せて手招きしている。そっちへ走っていくと、馴染んだ町の風景が見えた。このときほど、たっちゃんがかっこよくおもえたことはなかった。僕は、ほっとして家に帰った。
このあいだ、行きつけの本屋をパトロールしていたら、『迷子手帳』という本を見つけた。作者は、歌人の穂村弘。あとがきに、こうある。
……いつまでも迷子であり続ける人のための手帳です。
自分の道がしっかりわかっている人も心配しなくて大丈夫。
これ一冊あれば、貴方もきっと迷子になれる。
僕は、さっき書いた迷子体験を思い出しながら、手に取ってみた。北海道新聞で連載したエッセイをまとめたとある。
旅行で地方の街へ行ったとき、商店街の寝具店でマネキンを見かけた話。西洋風のマネキンがネグリジェを着て、微妙にずれた金髪の鬘をかぶり、虚空を見つめて微笑んでいる。その様子が、さみしい。
なにもかもがさみしい。でも、ウインドウの前から立ち去ることができない。その空気を隅々まで味わいたいのだ。
さみしいものが見たくなるのは何故だろう。
人間の心の中には、明るさや楽しさや豊かさや優しさ温かさだけでは埋められない隙間みたいな領域があるんじゃないか。さみしさだけがそこを埋めるのだ。
そして作者は、「ただ、しばらくの間、そのさみしさに浸っていたいのだ。」という。
ふーむ。この風景、この感じは、見たことも、経験したこともないぞ。さみしさに浸っていたい――僕には、そんな欲求はないとおもう。いや、自覚していないだけで、ほんとうはあるのだろうか。
この辺から、僕は迷子になりはじめている。
子供ができなくて離婚した友人の話。友人は子供が欲しかったけれど、なかなか恵まれなかった。奥さんは、「そのうちできるよ」といっていた。しかし――
友「でも、あいつ、できないように手術してたんだ」
ほ「え!」
友だちの顔が歪んだ。私は呆然とする。奥さんは子どもが欲しくなかったのか。にしても、二人の間で話し合いはなかったのか。さまざまな思いが過る。でも、何も云えない。ただ、奥さんの「そのうちできるよ」が怖かった。
怖っ! その奥さんは何者?
心から好きなことをずっとしていられたら満たされるだろう、という話。
心から好きなことをずっとしていたい、と思う。でも、簡単なようで、これほど難しいことはない。その前提として、まず心から好きなことを見つける必要がある。
作者は、サーファーや陶芸家や(自動車の)走り屋などを挙げて、彼らは波や土や車の一点に情熱をそそいで、「本当に好きなものを大切にして、一瞬一瞬を迷いなく生きられそうだから」という。
後輩に穂村さんには短歌があるじゃないですか、といわれたけれど、もし、短歌を作る時間が、「ずっと続いたら、むしろ苦痛になりそうだ。」とおもう。この辺りで、僕はもう迷子になっている。僕は小説家を自称していたけれど、ずっと小説を書く時間が続いたら、確かに苦痛だろう。すると、ほんとうに好きなものは何なのか?
こっちや! と手招きしてくれたスーパーヒーローたっちゃんの姿はない。でも、不思議とあのときの不安はない。それよりも、作者が垣間見せてくれる既知の世界に亀裂に見入っている。
迷子とは、常に世界を未知のものとして見る存在をいうのだろう。それは齢を重ねて半可通になるより、人間として、ずっと、いいことだし、特に小説家としては大切なことだ。
みなさん、迷子になりましょう!
お勧めの本:
『迷子手帳』(穂村弘著/講談社)