『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第55回 正修止観章⑮

[3]「2. 広く解す」⑬

(9)十乗観法を明かす②

①十乗を広く解す

 前回に引き続き、「十乗観法を明かす」についての説明を続ける。あらためて、この段の科文を掲げると、下記の通りである。

7.2812 十乗観法を明かす(52b-101c)
7.28121 正しく十観を明かす(52b-101b)
7.281211 端座して陰・入を観ず(52b-100b)
7.2812111 初めに法(52b-100a)
7.28121111 十乗を広く解す(52b-100a)
7.281211111 観不可思議境(52b-55c)

 
 今回は「十乗を広く解す」・「観不可思議境」の段である。つまり、十乗観法のなかの第一「観不可思議境」について説明する。すでに十境の第一「陰入界を観ずること」は、心を観ずること、すなわち観心に切り詰められることを述べた。この段の冒頭には、次のように述べられている。

 一に心は是れ不可思議の境なりと観ずとは、此の境は説くこと難ければ、先に思議の境を明かして、不思議の境をして顕われ易からしむ。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、556頁)

 これは、不可思議境(思議を超えた対象界の意味で、不思議境と表現されることもある)は説明しにくいので、便宜的に、まず思議境(思議することのできる対象界)を明らかにすると述べている。もっとも、不可思議境を言葉で説明することは、本来形容矛盾のようなものであるから、実はこの不可思議境 の説明も最終的には放棄・断念されるのであるが、ともかく順序として、思議境の説明が先行してなされる。

 ②思議境とは何か(1)

 思議境とは、具体的には、心が一切法を生ずるという考え方であり、これに二種がある。第一に、心が六道を生ずるという小乗の考え方であり、第二に、心が十法界を生ずるという大乗の考え方である。とくに後者は、一切法の究極的原因として「心」を措定し、「心」からの一切法の生成を説く立場であり、地論学派(世親の『十地経論』を主要な研究対象とする大乗の学派で、六世紀から七世紀にかけて北地において流行した)、摂論学派(世親の『摂大乗論釈』[無著の『摂大乗論』の注釈書]を主要な研究対象とする大乗の学派で、南地の真諦[499-569]門下において形成された)などの唯識系統の仏教思想を念頭に置いたものであろう。
 では、以上の二つの立場についての『摩訶止観』の記述を見てみよう。

 思議の法とは、小乗にも亦た心は一切の法を生ずと説く。六道の因果、三界の輪環(りんかん)を謂う。若し凡を去って聖を欣(よろこ)ばば、則ち下を棄てて上出し、灰身滅智(けしんめっち)す。乃ち是れ有作の四諦にして、蓋し思議の法なり。大乗にも亦た心は一切の法を生ずと明かす。十法界を謂うなり。若し心は是れ有なりと観ぜば、善有り、悪有り。悪は則ち三品、三途の因果なり。善は則ち三品、修羅・人・天の因果なり。此の六品を観ずるに、無常生滅す。能観の心も亦た念念に住せず。又た、能観・所観は悉ごとく是れ縁生なり。縁生は即ち空にして、並びに是れ二乗の因果の法なり。此の空有の二辺に堕落して、空に沈み有に滞るを観じて、大慈悲を起こし、仮(け)に入りて物を化し、実には身無きに仮りに身を作し、実には空無きに仮りに空を説きて、之れを化導するが若きは、即ち菩薩の因果の法なり。此の法の能度・所度を観ずるに、皆な是れ中道実相の法にして、畢竟清浄なり。誰か善、誰か悪、誰か有、誰か無、誰か度、誰か不度ならん。一切の法は悉ごとく是の如し。是れ仏の因果の法なり。此の十法の邐迤(りい)浅深は、皆な心従り出ず。是れ大乗なりと雖も、無量の四諦に摂せられ、猶お是れ思議の境にして、今の止観の観ずる所に非ざるなり。(『摩訶止観』(Ⅱ)、556-560頁)

 まず、心が一切法を生ずるという小乗の世界観が示される。この場合の一切法の範囲は、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天という六道の因果、欲界・色界・無色界という三界における輪廻を指している。いわゆる三界六道の輪廻を指している。もし凡夫から聖人を願うこと、つまり輪廻から解脱しようとすれば、下を捨てて上に超出し、灰身滅智するといわれる。灰身滅智とは、身も心=智も滅して無余涅槃に入ることで、小乗の修行の究極目的である。そして、これが有作の四諦とされる。有作の四諦とは、蔵教の生滅四諦に該当すると考えられる。有作は有為と同じく、因縁によって生成消滅することを意味するのであろう。
 次に、心が一切法を生ずるという大乗の世界観が示される。この場合の一切法の範囲は、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の十法界(簡略に十界ともいう)のことである。心が有であると観察する場合は、三悪と三善がある。三悪とは地獄・餓鬼・畜生の三途(さんず)の因果であり、三善とは阿修羅・人・天の因果である。この三悪・三善の六種を観察すると、無常で生滅する。観察する主体としての心もやはり一瞬一瞬とどまることがない。さらにまた、観察する主体も観察される対象もどちらも因縁によって生じたものである。因縁によって生じたものは空であり、二乗の因果の法とされる。この二乗における空と六道における有とが二つの極端に堕落し、空に沈み、有に滞ることを観察して、大慈悲を起こし、仮(仮りのものとして成立している現象世界の意)に入って(※1)衆生を教化し、実際には身体がないのに仮りに身体を作り出し、実際には空はないのに仮りに空を説いて化導するようなことは、菩薩の因果の法とされる。この菩薩の因果の法における救済する主体と救済する対象を観察すると、すべて中道実相の法であり、究極的に清浄であり、仏の因果の法であるとされる。(この項、つづく)

(注釈)
※1 「入仮」(仮に入ること。仮に出るという「出仮」と同義)という菩薩のあり方については、『三観玄義』の「一には仮に入るの意を明かすとは、此の観は正しく俗諦を観じて塵沙の無知を破すと為す。若し二乗は物を化するを為さずば、此の観を須いず。菩薩の弘誓は、必ず此の観を須う。言う所の空従り仮に入るとは、若し空に滞らば、二乗地に堕す。……是の故に教道の菩薩は空従り仮に入り、道種智を以て菩薩の位に入る。若し空に滞らずば、空中に樹を種うるが如く、薬病を分別して、衆生を化するなり」(『新纂大日本続蔵経』55、672中10~16)を参照。ほぼ同文が『維摩経玄疏』巻第二(大正38、527下8~15)にも出る。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。