漫画読みになったのは小学校に入るころだった。当時は漫画雑誌の創刊が相次いで、『少年マガジン』『少年サンデー』『少年キング』『少年ジャンプ』『少年チャンピオン』と週刊誌だけで5誌もあった。
僕はすべて購読していた。発売日には、学校から帰ってまっすぐに本屋へ。すると1台のトラックが店先に停まって、荷台からビニール紐で結んだ漫画雑誌の束を下ろす。馴染みの本屋のおじさんが鋏で紐を切って、1冊手に取ると、ぱんぱんと埃を払う。
「はい、村上君」
「ありがとう」
僕は掌ににぎりしめて温かくなっている硬貨を渡して、漫画雑誌を受け取る。表紙をめくる。ぷんとインクの匂いが立つ。歩きながらページを繰ると、指先が青いインクで染まる。僕は家にたどりつくまでに、連載の一話を読み終わっている――。
いまでもそのころのことは、よく憶えている。あんなに夢中になって漫画のなかへ入っていけたのは、名作がそろっていたからだろうか。それとも子供だったからだろうか。その後、だんだん関心が文学に移って、あまり漫画は読まなくなった。
久し振りにあのころに近い感じで、作品の世界へ入っていられたのは、『ツユクサナツコの一生』だった。作者は益田ミリ。僕はこの漫画で初めて益田の漫画を読んだ。だから、ほかの漫画は知らない。ただ、この作品はすぐれているとおもう。
主人公は、ナツコという30代なかばの女性。若いころにひきこもりを経験して、オーバーオールのジーンズを着たとき、それが鎧のように自分を守ってくれるとおもえて、外へ出られるようになる。
それからドーナツ屋でアルバイトをするようになった。傍らで漫画を描いている。ペンネームはツユクサナツコ。この劇中劇のスタイルでは、主軸の漫画で描かれるナツコの生活が、少しずらして描かれる。そのずれによって、彼女の生活が批評される仕掛けだ。
主軸のナツコの生活では、姉は嫁いで家を出ていて、母を失ったナツコは寡夫となった父と二人暮らし。父は、母が亡くなってから、台所へ立つようになった。バイトから帰ると、夕ご飯をつくっている。
この父娘の生活が淡々と描かれる。なにか大きな物語の流れがあって、作品を駆動するような長篇ではない。最後までちょっとした逸話を核にした短篇のつらなりが続く。けれど、これがいい味を出しているのだ。
たとえば第1話では、バイト帰りに小学一年生の子供たちを見かける。彼らが食べ物なら、「口に入れたばっかりの真新しいガム」とおもいつく。うちに帰って座椅子で居眠りをしている父を見て、「この人がガムなら/もう、ほぼほぼ味ないんかな」とふっとおもう。
そこからナツコの思索が始まる。齢を重ねると、ほんとに味が薄くなっていくのか? 逆に、いろいろなことが圧縮されて、「むしろ味がどんどん濃くなっていくのでは」。そして、ナツコは机に向かう。ここで漫画は、彼女の描く『おはぎ屋 春子』に切り替わる。
春子は、おはぎを売っている。店を閉めた帰り道でガムマシーンを見つけてひとつ買う。ガムを噛みながら小学一年生と出会って、「このガムみたいにフレッシュな1年生や」とおもうが、「人生って出だしのほうが味が薄いのとちゃうか」と考えを深める。
「だって生まれたときはな~んも知らんやんか」「命の大切さ、さえも」「そーゆーのって学ぶんや」「誰かに大切にされた経験からちょっとずつ」。ここで春子は野の花を棒でたたいている子供を見つけ、「お花さんが痛い痛いって言うてるで/お花さんも生きてるしな」とさとすが、子供は泣いてしまう。母親がやって来て、彼女は不審者あつかい。
第3話は、5年前に亡くなった母の遺骨を墓へ納めに行く物語。コロナ下なので東京に嫁いでいる姉は来ない。ナツコは父とふたりで出かけることに。その前に彼女は遺骨を家の庭に向けて、「お母さん、庭見てから行くか」と父の座椅子の上に置く。ここで沈黙の間を意味するコマが入る(このコマがひとつあるかないかで、作品の味わいが変わる。作者のセンスは、とてもいい)。
ナツコに買ってもらったポロシャツを着ている父は、帰りがけ唐突に、「セミて仰向けに死ぬらしいで/空見て死ぬてええかもなぁ」と言い出す。彼女は、「セミ、背中側に目あるやん? 空は見られやんのとちがう?」
続く、『おはぎ屋 春子』では、夫の遺骨を納める寡婦が店に来る。納骨の前に、「お父さんがよう行ったとこ、見せてあげよ思て」と。ここでも寡婦が父と同じようにセミの話をして、春子は見えるのは土ではないかと返すが、寡婦は、「そら なお、ええやん/自分が長い間おった土のほうが、セミには思い出あるやろし」と。
絵は、シンプルな素描風で、ヘタウマな感じが、ナツコの日常とぴったりしていて、この組み合わせも、いい。
最後にナツコがどうなるのか、彼女が幸せだったのかは、あなたが読んで判断してください。
お勧めの本
『ツユクサナツコの一生』(益田ミリ著/新潮社)