『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第52回 正修止観章⑫

[3]「2. 広く解す」⑩

(8)陰入境を観ず・入境を明かす②

 「陰入境を観ず」・「入境を明かす」(※1)の段落の続きである。今回の範囲では、まず九種の五陰を取りあげている。『摩訶止観』巻第五上には、

 一期(いちご)の色心を果報の五陰と名づく。平平(びょうびょう)の想受は、無記の五陰なり。見を起こし愛を起こすは、両(ふた)つの汚穢(おえ)の五陰なり。身口の業を動ずるは、善悪の両つの五陰なり。変化示現は、工巧(くぎょう)の五陰なり。五善根の人は、方便の五陰なり。四果を証するは、無漏の五陰なり。是の如き種種は、源は心従り出ず。(第三文明選書『摩訶止観』(Ⅱ)、550頁)

と述べている。これは、『大乗義章』巻第八、「次に三性に就いて、五陰を分別す。三性と言うとは、所謂る善・悪・無記性なり。『毘曇』の如きに依るに、陰に別して九有り。相従して三と為す。言う所の九とは、一に生得の善陰なり。二に方便の善陰なり。三に無漏の善陰なり。四に不善の五陰なり。五に穢汚(えお)の五陰なり。六に報生の五陰なり。七に威儀の五陰なり。八に工巧の五陰なり。九に変化の五陰なり(底本の注記の校異によって「九変化五陰」を補う)」(大正44、 623下6~11)とほぼ共通である。
 『摩訶止観』では汚穢の五陰を二種に分けている(見煩悩を起こす五陰と愛煩悩を起こす五陰)が、『大乗義章』には工巧の五陰のほかに変化の五陰を立てている(『摩訶止観』では「変化」は、工巧の五陰の説明のなかに出ている)。慧澄癡空(えちょうちくう)の『講義』によれば、「平平の想受」が「威儀の五陰」に相当すると解釈されている。
 さて、九種の五陰の簡潔な意味を示す。第一の果報の五陰は、一生涯持ち続ける色心をいう。第二の無記の五陰は、平らかでかたよらない想陰・受陰をはじめとする五陰をいう。第三は見煩悩(身見・辺見・邪見・見取見・戒取見)を起こす汚穢の五陰であり、第四は愛煩悩(貪欲・瞋恚・愚痴・慢・疑)を起こす汚穢の五陰である。第五の善の五陰は身・口の善業を動かすものをいい、第六の悪の五陰は身・口の悪業を動かすものをいう。第七の工巧の五陰は、神通力などによって身を変化させたり、さまざまな身を示現したりする五陰をいう。第八の方便の五陰は、五善根(別相念処と総相念処とを合わせて一善根とし、煖・頂・忍・世第一法の四善根に加えたもの)を修行する五陰である。第九の無漏の五陰は、須陀洹果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果の四果を証得する五陰である。大事なことは、このようなさまざまな五陰は、その根源は心から生じているということである。
 次に、心を根源としてさまざまな五陰を生ずるという考えを示す二つの経文を引用している。『摩訶止観』の文によれば、一つは『正法念処経』の「画師(えし)の手ずから五彩を画(えが)き出だすが如し。黒・青・赤・黄・白・白白なり。画く手は心を譬え、黒色は地獄の陰を譬え、青色は鬼を譬え、赤は畜を譬え、黄は修羅を譬え、白は人を譬え、白白は天を譬う」(同前)である(※2)。これによれば、画家の手が心をたとえ、この手が描く黒・青・赤・黄・白・白白の六色(六色にするために、白と白白を区別している)が、それぞれ地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天をたとえている。そして言うまでもなく、「此の六種の陰は、止(た)だ界内に斉(かぎ)る」(同前)と述べられる。
 もう一つは『華厳経』の「心は工(たく)みなる画師の種種の五陰を画(えが)くが如し」(『摩訶止観』(Ⅱ)、550-552頁)である(※3)。この文については、

 界内・界外の一切世間の中、心従り造らざること莫し。世間の色心すら尚お窮尽(ぐうじん)し叵(がた)し。況んや復た出世をや。寧(いずく)んぞ凡心もて知る可けん。凡眼は翳(おお)われて尚お近きすら見ず。那んぞ遠きを見ることを得ん。弥生(みしょう)、曠劫(こうごう)に界内の一隅を覩(み)ず。況んや復た界外の辺表をや。渇鹿の炎を逐(お)い、狂狗(ごうく)の雷を齧(か)むが如き、何ぞ得るの理有らん。縦令(たと)い解悟すとも、小乗にして、終に大道に非ず。(『摩訶止観』(Ⅱ)、552頁)

と説明している。三界内部・三界外部のあらゆる世間という領域のなかで、心から作らないものはない。世間の色心はもとより、出世間の色心を窮め尽くすことはできない。世間の色心と出世間の色心について、凡夫の心で知ることはできない。そもそも凡夫の眼は覆われて近いものさえ見えないのであるから、遠いものはなおさら見えない。久しい生存、久しい劫にわたっても、凡夫は三界内部の一隅をも見ないのであるから、なおさら三界の外の果てを見ない。このありさまを、喉の渇いた鹿が炎を追いかけたり(※4)、気が狂った犬が雷にかみついたりするようなものとたとえている。このような鹿や犬は三界の外を見ることができる道理はないと述べている。たとい悟っても、小乗の覚りであって、最終的に大道(大乗)の覚りではないと述べている。(この項、つづく)

(注釈)
※1 『摩訶止観』(Ⅱ)の科文の説明文の読みを、本文のように修正する。
※2 『正法念処経』巻第四、生死品(大正17、19上)と、巻第五、生死品(同前、23下)を参照。二箇所で、色の配当が異なり、『摩訶止観』の引用とも文章が大いに異なる。
※3 『六十巻華厳経』巻第十、夜摩天宮菩薩説偈品(大正9、465下26)に同文がある。
※4 『央掘魔羅経』巻第四、「猶お鹿は渇きて炎に於いて水想し、追逐して乏死するが如し」(大正2、541下6)、『楞伽阿跋多羅宝経』巻第二、一切仏語心品、「譬えば群鹿は、渴の逼(せ)まる所と為り、春時の炎を見て、水想を作し、迷乱馳趣し、水に非ざるを知らざるが如し」(大正16、491上7~9)を参照。犬のたとえの出典は未詳。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。