芥川賞を読む 第40回 『八月の路上に捨てる』伊藤たかみ

文筆家
水上修一

夢破れながらも最後の勝ちを夢見る切なさが胸を打つ

伊藤たかみ(いとう・たかみ)著/第135回芥川賞受賞作(2006年上半期)

物語を構成する2つの軸

 第135回芥川賞を受賞した「八月の路上に捨てる」は、『文學界』に掲載された約105枚の短編だ。受賞当時35歳だった伊藤たかみは、その11年前の1995年に「文藝賞」を受賞して以降、「小学館児童出版文化賞」「坪田譲治文学賞」を受賞し、芥川賞候補にも二度上っており、満を持しての芥川賞受賞ということになる。
 主人公は、脚本家を夢見る若者、敦。自動販売機に飲料缶を補充して回るアルバイトで食いつなぐ。そのトラックを運転するのは、サバサバした気性の先輩女性で、敦は助手席でその彼女をサポートする。描かれている舞台は、わずか1日。暑い夏の日に都内の自販機を回る間、先輩女性が話題にするのは、目前に迫っている敦の離婚のこと。彼女自身も過去に離婚を経験していたがゆえに、敦とその妻に関することを根掘り葉掘り聞いてくるのである。そのやり取りの中で、主人公は妻との過去をさまざま回想する。
 物語の軸は2つある。ひとつは、その1日の仕事の流れで、そこで敦と先輩女性の会話が繰り広げられる。仕事の描写が非常にリアリティがあるゆえに物語への引き込みが強い。もうひとつは、仕事の合間に回想される、離婚に至るまでの経緯やそれに対する思いだ。この2つの軸があることによって、夫婦関係の破綻に至るまでの心理描写が平坦ではなく立体的なものになった。うまい構成だ。
 だが、選考会では否定的な意見が多かった。その最たるものは、物語の小ささだ。離婚というある意味ありふれたテーマを題材にするのであれば、そこから男女の、あるいは人間の奥に潜む大きなものに挑んでほしいということなのだろう。
「受賞作なし」ということもあり得ると考えながら選考会に臨んだという宮本輝は「もっと大きな芯が土台として設定できたのではないかと不満を感じた」と言う。
「今回もまた期待外れでしかなかった」と言う石原慎太郎は、

いかに軽く他愛ないものだろうと、離婚という、結婚を選択して選び合った男と女の別離の芯の芯にあるものの重さをちらとでも感じさせるのが文学の本髄というものではなかろうか

と、いつものように手厳しい。
 村上龍は、

問題は何を伝えようとしているのかわからないということに尽きる。(中略)小説はメディアなので「伝えたいこと」がなければ存在価値がない

と言い切った。

短い言葉で微妙な心理を描写するうまさ

 その一方で、強く推す選考委員もいた。そこに共通することは、構成と文章のうまさである。
 まず構成。黒井千治はこう述べる。

主人公はアルバイトの身なのだから、2人は同僚とは言えない。上司と部下の関係とも違う。男と女の繋りがあるわけでもない。気心の知れた2人の仕事を通しての信頼関係が、離婚を前にした主人公の現在を浮かび上がらせ、過去を照らし出すところが新鮮で、自然でもある。つまり、現在主導のもとに過去が眺められ、その視座が過去を乗り越えようとする姿勢を生み出そうとする

 次に文章。そのうまさを絶賛していたのは河野多恵子だった。ここではいちいち挙げないが絶妙な文章を引き合いに出しながら、「並の才能と力量では書けるものではないだろう」と言い、「不如意な結婚生活と離婚を扱って、簡潔な文章からさまざまなに迸る人間の妙味の豊かさには尋常ならぬものがある」と述べている。実際、短い言葉をさらりと繰り出して微妙な心理描写を的確にやってのけるあたりは、ため息が出るほどうまい。
 それぞれの男女ともに、ことごとく夢が破れ、その痛みに耐えながら、それでも最後の勝ちを夢見る、その切なさに胸を打たれた。
 また一方で、負け続けの人生であるにもかかわらず、不思議にも、未来に対する明るい希望のようなものを微かに感じることができた。
 髙樹のぶ子の「言葉が、伏流水のように裏に流れる意識を感じさせるのは才能だろう」という言葉どおりだ。
 余談だが、伊藤たかみは、2006年に直木賞作家の角田光代と結婚して2年後の2008年に離婚している。本作品は、2006年6月号の『文學界』に発表された作品だから、結婚前後からこの作品を構想、あるいは執筆していたのかもしれない。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』 第13回『おでるでく』 第14回『この人の閾(いき)』 第15回『豚の報い』 第16回 『蛇を踏む』 第17回『家族シネマ』 第18回『海峡の光』 第19回『水滴』 第20回『ゲルマニウムの夜』 第21回『ブエノスアイレス午前零時』 第22回『日蝕』 第23回『蔭の棲みか』 第24回『夏の約束』 第25回『きれぎれ』 第26回『花腐し』 第27回『聖水』 第28回『熊の敷石』 第29回『中陰の花』 第30回『猛スピードで母は』 第31回『パーク・ライフ』 第32回『しょっぱいドライブ』 第33回『ハリガネムシ』 第34回『蛇にピアス』 第35回『蹴りたい背中』 第36回『介護入門』 第37回『グランドフィナーレ』 第38回 『土の中の子供』 第39回『沖で待つ』 第40回『八月の路上に捨てる』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。