『摩訶止観』入門

創価大学大学院教授・公益財団法人東洋哲学研究所副所長
菅野博史

第50回 正修止観章⑩

[3]「2. 広く解す」⑧

(7)灌頂による十六の問答③

⑪第十一の問答:五陰の外に五陰を観察するものがあるのか

 五陰がみな対象界であれば、色心(五陰のこと)のほかに別に観察の主体があるのかという質問が立てられる。
 これに対して、不思議の境智(不思議の対象界と観察する智慧)の立場では、五陰そのままが観察の対象界でもあり、観察の主体でもあると答えている。さらに、次のように区別する場合もあると答えている。不善(悪のこと)の五陰と無記の五陰は対象であり、善の五陰は観察の主体であること、観察の主体の善の五陰(悪の五陰も善の五陰も五停心・別相念処・総相念処の三賢=外凡の位)が方便の五陰(煖・頂・忍・世第一法の四善根=内凡の位)に転換し、方便の五陰が無漏の五陰(究極的には阿羅漢を指す)に転換し、無漏の五陰が法性の五陰(方便有余土における五陰)に転換する。法性の五陰とは、無等等(等しいものがないほど優れているの意)の五陰ともいわれる。このように対象界である五陰のほかに別に観察の主体としての五陰があることになる。これらの説明は小乗についていったものであり、まして不思議の立場ではなおさら観察の主体としての五陰があるといわれる。

⑫第十二の問答:果報の五陰の転換

 もし観察の対象の五陰を転換して観察の主体とするならば、果報としての五陰も転換するのかという質問が立てられる。
 これに対して、五陰は所観(観察の対象)から能観(観察の主体)へ転換するけれども、観察の主体と対象界はそっくりそのまま備わっていると答えている。

⑬第十三の問答:十種の対象界と五分(退分・住分・進分・達分・護分)

 十種の対象界と五分との関係についての質問が立てられている。
 これに対して、五分は禅を判定したものであり、十境が生じることは対象界の立場に焦点をあわせたものであるという基本的な立場の相違を述べたうえで、両者の関係付けについて具体的に説明している
 次第であれ、不次第であれ、対象界が一たび生じて後の対象界に至る場合は、進分であること、禅以外の他の九種の対象界まで至るのが住分であること、意志を働かせて自信を持って強くかまえることが護分であること、対象界が一たび生じて、すぐに失われることが退分であることと述べている。達分については自明のこととして説明がないが、『輔行』巻第五之二には、「達は発するに随いて、皆な自境を以て境に体達するを謂う」(大正46、288中8~9)と説明している。つまり、対象界(境)が生じるにしたがって、その対象界(境)を体得することを達分といっている。十種の対象界のそれぞれの対象界において、すべて五分を設けることがあるが、これについては論じる必要がないといわれる。

⑭第十四の問答:法性が能念(念ずる主体)と所縁(認識する対象)を離れる場合、十法界はあるのか

 法性が能念(念ずる主体)を離れ、法性が所縁(認識する対象)を離れる場合、所縁も能念もないことになり、この場合、どうして十法界を備えるのかという質問が立てられる。
 これに対して、十法界は思議を超えていて、無相であってしかも相であること、また、観察する智慧と十法界がそのまま備わっていることを指摘している。さらに別の解釈として、不思議とは須弥山が芥子を入れ(芥子が須弥山に充満すること)、芥子が須弥山を入れること(※1)、火より蓮華を出すこと(※2)、人が海を渡ることができることである(※3)と示している。これは稀有な事象について不思議を解釈しているのであるが、今は、「心もなく念もなく、行くことができることもなく、到ることができることもないのが不思議の理である」と解釈している。このように不思議の理は不思議の事より優れているのであると述べている。

⑮第十五の問答:十界互具は因においてか果においてか

 十法界がたがいに他を有するのは因においてであるか、果においてであるかという質問が立てられる。
 これに対して、因においても果においても、十法界はたがいに有すると答えている。因の方については、慈童女が地獄界によって仏心を生じたこと(※4)、まだ記別を得ていない菩薩が記別を得たものを軽んじること(※5)を例として取りあげている。
 さらに、果の方については、凡人、聖人はどちらも五陰を備えているが、聖人の五陰が凡人の五陰のようであるということはできないこと、さらに、仏は肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼の五眼を備えているので、どうして人天の果報によって仏眼を解釈することができようかと指摘している。仏は五行(『涅槃経』に説かれる聖行・梵行・天行・嬰児行・病行)を備えており、病行は四悪道の法界であり、嬰児行は人・天の法界であり、聖行は二乗の法界であり、梵行は菩薩の法界であり、天行は仏の法界であると述べている。

⑯第十六の問答:一念に十法界を備えることは作為的か自然的か

 一念に十法界を備えるのは、作為的に備えるのか、任運(自然のままにの意)に備えるのかという質問が立てられる。これに対して、法性は自然とそうなっていて、作為によって完成されるものではないと答えている。
 以上で、灌頂による十六の問答に対する説明が終わった。
 次に、「章に依りて解釈す」の段に入る。この段の科文の最初の部分は、以下の通りである。

1. 陰を観じて境に入る
1.1. 境に入るを明かす
1.2. 十乗観法を明かす
1.2.1. 正しく十観を明かす
1.2.1.1. 端坐して陰・入を観ず
1.2.1.1.1. 初めに法
1.2.1.1.1.1. 十乗を広く解す
1.2.1.1.1.1.1. 不可思議境

 
(注釈)
※1 須弥山と芥子の関係については、『南本涅槃経』巻第四、四相品、「若し菩薩摩訶薩有りて大涅槃に住せば、須弥山王の是の如き高広なるものを、悉ごとく能く取りて芥子に入れしむ」(大正12、628上20~21)、『維摩経』巻中、不思議品、「唯だ舎利弗よ、諸仏菩薩に解脱有るを、不可思議と名づく。若し菩薩は是の解脱に住せば、須弥の高広なるを以て、芥子の中に内(い)るるに、増減する所無し」(大正14、546中24~26)を参照。
※2 火より蓮華を出すことについては、『南本涅槃経』巻第五、四相品、「又た、解脱とは、名づけて希有と為す。譬えば水中に蓮花を生ずることは、希有と為すに非ざるが如し。火の中に生ずるは、是れ乃ち希有なり」(大正12、633中16~17)を参照。
※3 人が海を渡ることができることについては、『南本涅槃経』巻第十六、梵行品、「善男子よ、若し人有りて我れ能く浮きて大海の水を渡ると言わば、是の如きの言は思議す可きや。世尊よ、是の如きの言は、或いは思議す可く、或いは思議す可からず。何を以ての故に。若し人は渡らば、即ち思議す可からず。阿修羅は渡らば、則ち思議す可し」(同前、714上17~20)を参照。
※4 慈童女が地獄界によって仏心を生じたことについては、『雑宝蔵経』巻第一、慈童女縁(大正4、450下~451下)を参照。とくに「[慈童女]願わくば、一切の応(まさ)に苦を受くべき者をして、尽(こと)ごとく我が身に集めしめよ。是の念を作し已って、鉄輪は即ち地に堕す」(同前、451下1~3)を参照。
※5 まだ記別を得ていない菩薩が記別を得たものを軽んじることについては、『大品般若経』巻第十八、夢誓品、「我が説く所の阿惟越致(あゆいおっち)の行・類・相貌(そうみょう)は、是の人に永く無し。但だ空の名字を以て、余人を軽弄(きょうろう)毀蔑(きべつ)す。是の事を以ての故に、阿耨多羅三藐三菩提を遠離す」(大正8、353上4~7)を参照。

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かんの・ひろし●1952年、福島県生まれ。東京大学文学部卒業。同大学院博士課程単位取得退学。博士(文学、東京大学)。創価大学大学院教授、公益財団法人東洋哲学研究所副所長。専門は仏教学、中国仏教思想。主な著書に『中国法華思想の研究』(春秋社)、『法華経入門』(岩波書店)、『南北朝・隋代の中国仏教思想研究』(大蔵出版)、『中国仏教の経典解釈と思想研究』(法藏館)など。