芥川賞を読む 第39回 『沖で待つ』絲山秋子

文筆家
水上修一

同期入社の男女の友情を爽やかに切なく描いた名作

絲山秋子(いとやま・あきこ)著/第134回芥川賞受賞作(2005年下半期)

純文学に対する見方が変わる

「芥川賞作品にもこんな作風のものがあるのだ」と妙に感心した。純文学と呼ばれるもの、なかんずく芥川賞作品に見られがちなかなり特殊な世界の話ではないし、難しいテーマでもない。多くの人が経験しているであろうことを平易な文章でさらりと描いて見せて、読後に爽やかな感覚を残していく。「ああ、おもしろかった」と思いながら本を閉じると、心の奥がほんの少し温かい。
 選考委員の河野多恵子は、

純文学まがいの小説くらい、くだらない読物はない。そういうものを読んで純文学はつまらないと思い込んできた人たちに、この作品で本物の純文学のおいしさを知ってもらいたくもなった

と絶賛している。
 第134回芥川賞受賞作、絲山秋子の「沖で待つ」が描いているものは、仕事を通して生まれた異性の友情である。なかんずく同期という特殊な人間関係の持つ絆の強さが鮮やかに描かれている。学生気分の抜けきれない、これから社会という未知の世界に入っていく若者が、恐れと期待を胸に抱えつつ、同じような苦労と喜びを分かち合い愚痴を言い励まし合う。そこから生まれる人間関係は、学生時代の友人とは違うし、社会における仲の良い先輩や後輩とも違う、替えの利かない濃密な絆だ。恋愛と背中合わせにありながらも、恋愛には至らない純な関係。
 河野多恵子は、「女性総合職の〈私〉と同期入社で非常に気の合う〈太っちゃん〉との同僚づき合いを描いて、言い難い魅力がある」と言い、山田詠美は「友人でもなく恋人でもなく、同僚。その関係に横たわる茫漠とした空気を正確に描くことに成功している」と言う。
 黒井千次はこう述べる。

ここに見られる女と男の間にあるのは、恋愛感情でもなければ単なる友情でもない。仕事の中で灼熱する生命の閃光を共有することによって生まれた新しい関係である。しかも二人が女と男であるために、一見遠ざけられたかに見える性の谺が微かに響き返して来るところにも味わいがある

最大の武器は、仕事の鮮やかな描き方

 こうしたものを描くにあたって最大の武器となっているのが、仕事の描き方の見事さである。主人公は、転勤の多い住宅設備機器メーカーの営業マン。作者のプロフィールを見ると、大学を卒業後にINAX(イナックス)に勤務をしていたようなので、執筆にあたっては自らの職業経験が生かされたことは言うまでもないが、経験があるからと言ってきちんと描けるものでもない。専門的な話をむやみにひけらかすことなく、その仕事の苦労や喜びの核心となる部分を登場人物のやり取りの中でさらりと見せることで、物語がリアリティを持っていきいきと動き出すのだ。そこからその仕事に携わる人物と、人間関係が立ち上がってくる。
 黒井千次は「なによりも仕事の現場感覚が人物を支えるところに作の強みが宿っている」と言い、池澤夏樹は「今回の作でこの二人の仲を描くのに力あったのは彼らの職場の生き生きとした記述だ」と言い、宮本輝は「何年も実社会でもまれた人しか持ち得ない目が随所に光っている。そこはかとない深みといえるものが読後に残る」と言う。
 また、同僚の友情という、いわばありきたりのテーマでありながら、純文学として成立しているのは、そこにひと工夫が加えられているからだろう。話の冒頭に、実は3か月前にある事故で亡くなってしまっているはずの同僚が幽霊として登場する。そして、その後、生前に2人が交わしていた秘密の約束を果たすために、主人公がちょっとした冒険をする展開が織り込まれている。これによって静かな切なさが生まれ、物語に深みと立体感を与えた。
 原稿用紙にして約70枚の短編。冗長的になりがちな一人称でしかも話し言葉。にも拘らず全く無駄のない筆は、鮮やかというしかない。受賞に強く反対する選考委員がほぼいなかったのにも納得できる。単行本の帯に「すべての働く人に――」というフレーズがあったが、まさにそう思う。ぜひ読んでほしい。

「芥川賞を読む」:
第1回『ネコババのいる町で』 第2回『表層生活』  第3回『村の名前』 第4回『妊娠カレンダー』 第5回『自動起床装置』 第6回『背負い水』 第7回『至高聖所(アバトーン)』 第8回『運転士』 第9回『犬婿入り』 第10回『寂寥郊野』 第11回『石の来歴』 第12回『タイムスリップ・コンビナート』 第13回『おでるでく』 第14回『この人の閾(いき)』 第15回『豚の報い』 第16回 『蛇を踏む』 第17回『家族シネマ』 第18回『海峡の光』 第19回『水滴』 第20回『ゲルマニウムの夜』 第21回『ブエノスアイレス午前零時』 第22回『日蝕』 第23回『蔭の棲みか』 第24回『夏の約束』 第25回『きれぎれ』 第26回『花腐し』 第27回『聖水』 第28回『熊の敷石』 第29回『中陰の花』 第30回『猛スピードで母は』 第31回『パーク・ライフ』 第32回『しょっぱいドライブ』 第33回『ハリガネムシ』 第34回『蛇にピアス』 第35回『蹴りたい背中』 第36回『介護入門』 第37回『グランドフィナーレ』 第38回 『土の中の子供』 第39回『沖で待つ』 第40回『八月の路上に捨てる』


みずかみ・しゅういち●文筆家。別のペンネームで新聞社系の文学賞を受賞(後に単行本化)。現在、ライターとして、月刊誌などにも記事を執筆中。