気になる作家がいて、一度作品を読んでみようとおもうのだけれど、なかなか手に取る機会がない。いや、機会はつくるものだから、手に取るまでの関心が動かないというべきだろうか。
では、その作家が嫌いなのかと訊かれると、読んでないのだから応えようがない。やはり、手に取る機会がない、としかいいようがないのだ。そういう作家のひとりが、僕にとっては片岡義男だった。
『スローなブギにしてくれ』で野生時代新人賞をもらってデビューした作家ということぐらいしか知らなかった。この小説を原作にした映画もTVのロードショーで観た。映画は率直にいって、あまりおもしろいとはおもわなかった。
いつもの僕なら原作を取り寄せて比べてみるぐらいのことはしただろう。けれど、このときは、そうしなかった。なぜだかは分からない。それからもう30年近い歳月が流れている。
そして、最近になって、発作的に片岡義男の小説本を買った。『ミッキーは谷中で六時三十分』だ。これは明らかにタイトル買いだった。見た瞬間に、買わなければ、とおもった。
帯には、「作家デビュー40周年 7篇の東京小説」とある。このコピーは買ってから読んだ。だから、作家デビュー40周年にも、7篇の東京小説にも、惹かれることはなかった。
初めて読む片岡義男の短篇小説は、とても自由な作品だとおもった。発表の媒体は『群像』なので、いわゆる純文学のジャンルに分類されるのだろうが、作者はそういうことにまったく忖度していないように読める。
純文学の文芸誌に掲載される小説とは、趣きが異なっている。おそらく、片岡義男は、片岡義男の小説を書いたのだ。この態度は好ましい。舞台によって踊り方を変える器用な踊り子もいるだろう。けれど、片岡義男はそうではない。どこまでも片岡義男なのだ。
作品の舞台は、谷中、高円寺、三軒茶屋、経堂、吉祥寺、国分寺、渋谷など、東京の都市である。必ず、登場人物たちは、喫茶店でコーヒーを飲みながら会話を交わす。喫茶店がバーになることもある。ときどきジャズが流れる。ファッションについての話題が出る。
冒頭の『ミッキーは谷中で六時三十分』は、フリーライターの柴田耕平という28歳の若者が、何かの予感に導かれて、偶然に入った喫茶店で、マスターから、女をひとりつけるから、この店をやってみないか、と誘われる。自分は釣りに専念したい。
女はマスターの娘で、ナオミという。気性は荒いが、いい女らしい。短大のとき、国内チャンピオンになるほどビリヤードがうまい。彼女が営んでいるビリヤード場を訪ねると、美しい娘がキューを握っている。
話の流れから谷中で食堂をやっているナオミの母のところへ行く。店名は100%食堂。母は元ポルノ女優で、店内に当時のポスターを張っている。そこでアメリカン・クラブハウス・サンドイッチとコーヒーを注文する。
食事を終えた柴田は、ナオミに地下鉄まで送ってもらい、別れ際にキスをする。ちょうど彼女の手首にあるミッキー・マウスの腕時計が六時三十分を指している。右腕が短針で、左腕が長針。この時間のミッキーを見ると、ナオミはいつも笑うのだという。そして、ふたりは、またキスをして別れる。
うーむ。繰り返すけれど、何とも自由な小説だ。女性ホルモンで自分の胸に乳房を育てる男が登場する物語もあるけれど、全篇が奇想天外な話ばかりではない。逆に、作中の人物の多くは、喫茶店かバーで世間話をお洒落にしたような軽快なおしゃべりを続けている。それが、いま紹介した短篇で描かれたような片岡義男的物語でくるまれている。
片岡義男にコアな読者がいることに納得した。読み始めると、くせになる。次のような文章に惹かれた僕は、もう一冊、彼の小説を読んでもいいかとおもっている。旧知の女性がカウンターにいるバーで、主人公がいう。
右手の人さし指と中指をカウンターの端で重ね、
「このくらい、君が勧めるシングル・モルトを」
と、菅野は言った
アルコールのだめな僕は、こういう大人な場面に憧れている。小説で書くのではなく、実際にホテルのバーなどで口にしたい台詞だ。
もう一度、書く。片岡義男の小説は、自由だ。これが彼の作品の最大の美質である。
お勧めの本:
『ミッキーは谷中で六時三十分』(片岡義男著/講談社)